「仕事なんか生きがいにするな〜生きる意味を再び考える」という精神科医の泉谷閑示さんの本の紹介!
ぼくのこれまでの生々しい苦悩や体感、視点の変化を、古今東西の先人たちの思想と鮮やかにつなげてくれた名著です。
まるで、僕の体験の解説書のようで、読みながら感動に震えました。
いつもながら長いけど、
大事な記事になりそうな予感・・・
・食べる、寝るといった欲求の回復
・読む、見るといった情報処理能力の回復
・認知の偏りの修正
・アイデンティティクライシス(大抵はここで足踏み)
・過去の棚卸し
・トラウマの再定義
・価値観の転換
・意欲・自発性の醸成
・複眼的視点・メタ認知の獲得
・実存の探究
うつ病からはじまった僕の「人生の楽しさ」を取り戻していくプロセスを箇条書きにすると、こんな感じです。
この本は、「仕事=自分」ではないという主題をめぐって、この全体像を見事に描き出してるんです!
本当に見事に!!
この「仕事=自分」ではないという主題は、泉谷さんが精神科医としてクライアントに向き合う中で、
「生きる意味」といった根源的な悩みが多くなってきている中で、
認知行動療法やリワークは、あくまで認知や思考の偏りを「頭」のレベルで言い聞かせ修正を図ろうとする手法や元の環境への再適応を目指す方法で、深い実存のレベルにまで変化を引き起こすことはできない。
ということを感じたことからだそうです。
深い実存のレベルっていうのは、なんで生きてるの?幸せって何?というような、根源的な問いかけのこと。
アウシュビッツ収容所の入場門には
「働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)」
という標語が掲げられているそうですが、アウシュビッツ収容所の実態を既に知っている僕たちにとって、その標語がウソであることをもう知ってしまっています。
クライアントに起きているのも、ある意味その状態と似ています。
あの仕事に適応したところで・・・という感覚。
「生きる意味」をほったらかしにして再度社会(会社・仕事)に適応させたとしても、アイデンティティクライシスが引き起こされます。
「こんなことがやりたくて生きてるんだっけ?」
関連記事:その仕事に、残業150時間の意味はあるか - ナチュラルなイキカタ
まさに僕は、「この会社で働くことは、僕の望む生き方から遠ざかる」ことに悩み、3度の休職を経験するに至りました。
いまも、くだらない経営者層の思いつきの仕事に振り回されて疲弊しかかっています・・・。
あと何度これを繰り返すのか。
僕の人生は、会社経営者層の言い訳づくりのためにあるのか。
こうした疑問は、そもそも適応すべき社会(=会社・仕事)に「生きている実感」を得られないからに他なりません。
この不都合な真実は、不足を埋める「ハングリーモチベーション」で生きてきた人間にとっては、隠蔽しておきたいことです。
自分がよってたつアイデンティティを崩壊させますので。
でも、「人生の意味」といった根源的な問題をないがしろにして、適応し続けても、
個人差はあるものの、その人の「我慢」のタンクが一杯になった時、「心」は分かち難くつながっている「身体」と協働して、何がしかのシグナルを発してきます。
それが現代の「うつ」の根本病理であると泉谷さんは考えています。
これは、「心が飢えた状態」なんです。
物資的な不足を満たすことでは、永久に飢えは満たされない。
ましてやお金おや。
もちろん、僕もうつの実体験者として、認知行動療法やリワークの重要性はよく分かっています。
関連記事:【認知療法】認知療法とは何か - ナチュラルなイキカタ
関連記事:うつ病の最終的な再発予防は、リアルタイムで起きたことに対処していくこと。 - ナチュラルなイキカタ
布団を起き上がることもできない状態の時に、「生きる意味」を問われても、「ないから死のう」という結論に達することは目に見えています。
その時には、服薬、休養、心理療法といった、生き物としての身体の働きを取り戻す治療が不可欠です。
ところが、生き物としての身体の働きを取り戻して、はたと気づきます。
心と身体は、一体なにを拒絶したのだろうか?
僕の感覚は何を本当は望んでいるんだろう。
これが、「アイデンティティクライシス」です。
今まで自分が拠り所にしていた価値観の崩壊。
僕はここで、長い間足踏みしていました。
それもそのはず。
「自分」に対して唐突に「何がしたいのか」「何が嫌なのか」と問いかけてみても、「自分」は何も答えてはくれません。
長い間、「ノー」を禁じられて「自分」の声を聞かずに来たのですから、そのように扱われてきた「自分」の側ももはや主張することを諦めてしまっていて、口をきかなくなっているのです。
この先を導いてくれる精神科はマレです。
精神科の治療は、基本的には生き物としての身体の働きを取り戻すところまで。
あとは、それぞれの価値観の問題です。
カレーが好きな人はカレーを食べればいいし、ナポリタンが好きな人はナポリタンを食べればいい。
他人がとやかく言うことではない。
僕の場合、ここでブレイクスルーとなったのは、シータヒーリングのTさんに導かれた「本心からの行動」という直感の筋トレでした。
ちなみにこれは、心理学では「価値に沿った行動」というそうです!
すごいぞ心理学!
関連記事:責任は、重いものじゃない。自分を生かすこと。シータヒーリングのセッションをやってきました。 - ナチュラルなイキカタ
この点にも泉谷さんは言及しています。
人生の「意味」を求める前に、「意味」を感知できる主体、すなわち「自我」を復活させることから始めなければなりません。
「本心からの行動」は、「自我」の復活に必要だったんです。
この、意味を感じられる感覚が回復して初めて、生まれ変わったような新鮮な感覚と出会います。
僕の沖縄一人旅がまさにそれでした。
関連記事:やりたいことは今やってみる!沖縄気ままにぽかーん旅(1日目) - ナチュラルなイキカタ
生まれ育ってくる中で避け難く曇らされてしまい、「頭」でっかちで神経症的にならざるを得ないわれわれの感覚や認識というものを、「心」を中心に回復させることができた時、
人は「本当の自分」になったという内的感覚を抱きます。
これは、生まれ直したかのような新鮮な歓びに満ちたものであり、「第二の誕生」とも呼ばれます。
しかし、葛藤がありました。
僕が本当の自分を回復しようという行動は、単なる自分勝手なんじゃないか。
他人の気持ちを考えないと、自己満足やエゴイズムに偏った人間になってしまうのではないか・・・。
初めて書道家の武田双雲さんにお会いした時に、僕が質問をぶつけたのはこの点です。
関連記事:双雲塾オープンセミナー合宿「好転反応」 - ナチュラルなイキカタ
この点に言及していた先人は、なんとあの日本を代表する小説家・夏目漱石。
夏目漱石は、
「則天去私」
という言葉を残しています。
これは、「天にのっとり私を去る」という境地で、
「本当の自分」になる経験が起こると、必ずや一定期間の後に、「自分」への執着が消えるという新たな段階に入っていきます。
という意味だそうです。
驚きです!!
自己本位の状態が確立すると、「自分」への執着が消えるという質的変化が起きる!
僕がこの境地に達しているとは思いませんが、武田双雲さん、夏目漱石、ニーチェなどの言葉を見る限り、どうやらその境地があることは確からしい。
じゃあ思い切って、自分アンテナを磨きましょうw
さて、生き物としての身体の働きを取り戻し、自分の感覚を感知できる自分を回復して、ついに「生きる意味」と向き合うことになります。
本質的な「生きる意味」に入る前に、泉谷さんは二つの大きな誤解を解きます。
「意味」とは、「役に立つ」とか「価値がある」ということとは違うということです。
泉谷さんは、「役に立つ」「価値がある」ということを「意義」と呼んで、「意味」と明確に分けています。
「生きる意義」を求めることは、逆に苦しさを増幅させるからです。
問題なく動けて社会適応できてる時には気付き難いことですが、私たち現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる一種の「有意義病」にかかっているようなところがあります。
「休みを有意義に使いましょう」というようなスローガンはその典型です。
だから現代人は、「お金になる」「資格が取れる」「英気が養われる」といった役に立つことに傾斜し、心を疲弊させています。
コスパという言葉もそうですね。
有意義病、言い換えると「無駄恐怖症」
僕にもあります。
「生きる意味」の「意味」とは、
「心=身体」による感覚や感情の喜びによって捉えられるものであり、「味わう」というニュアンスが込められています。
料理の味わいに、「役に立つ」といった視座は取りようがありません。
その感じです。
また、「生きる意味はあるのか」という問いも、誤解に基づいています。
「生きる意味」は見つけるものではないからです。
「生きる意味はあるのか」という問いが前提としている誤りは、人生そのものにあらかじめ「意味」というものがあったりなかったりすると想定している点です。
「意味」とは、人が「意味を求める」という「志向性」を向けることによって初めて生ずる性質のものなのです。
「意味」というものは、どこかに点のように存在しているのではなく、「意味を求める」という意識のベクトルを向けることによって出現する、あくまで動的なものだということです。
上の文章には、僕たちが生き生きと生きる上で、ものすごく大事なキーワードが3つも出てきています。
「志向性」「ベクトル」「動的」
です。
「志向性」は、僕たち自身どのような状態で開いているか。
関連記事:双雲塾オープンセミナー合宿「ゆるくなる」 - ナチュラルなイキカタ
点を目指すとそこに至らない苦しさばかりを味わうことになるのでした。
「ベクトル」は何にエネルギーを注ぐか。
関連記事:心と体をゆるめて自然な生き方を引き出す唯一無二のマッサージサロン!サンディースパに行ってきました! - ナチュラルなイキカタ
うつと創造性は、エネルギーの方向が違うという違いしかないのでした。
「動的」は、静止せず常に動き変化していることです。
関連記事:瞬間瞬間に無条件にひらいていく岡本太郎さんのほんとうのイキカタ。 - ナチュラルなイキカタ
このような「生きる意味」が満たされた状態を、芸術家の岡本太郎さんは
無目的、非合理に、今この瞬間ふくらみ輝くこと(爆発)
と表現したのでした。
この本でも、岡本太郎さんの言葉が紹介されてる!
おぉつながる!!
この「生きる意味」に向うエネルギーを、著名な心理学者のフランクルは「意味への意志」という言い方で述べています。
なんと美しい言葉でしょうか。
「意味への意志」
このように、生き物としての働きを取り戻し、自分の素の感覚を感知しながら、無条件に非合理に生命感を味わう
という在り方こそが、自然体で、「ナチュラルなイキカタ」と僕が呼んでいるものです。
「本当の自分」というものは、どこか外に待ち受けていてくれるものではなく、自分の内部を、「心=身体」を中心にした生き物として自然な在り方に戻すことによって達成されるのです。
なんとこのブログのメインテーマにまでシンクロする「仕事なんか生きがいにするな」
アドレナリンが出ますw
ここで、本のテーマに戻ると、
こうした本当の自分があるにも関わらず、現代は「将来の夢=職業」「働かざるもの食うべからず」というように、労働を別格の地位に置き、「仕事=生きがい」としてしまっています。
これは、「天職」という概念に如実に現れており、仕事が天から与えられるという設定自体が、資本主義の精神と人間の生きがいが結びついてしまった(マックス・ウェーバーという政治学者が100年も前に指摘してます!)結果なのです。
「真の自己」が自分の内ではなく外に想定され、そしてそれがすでに社会に用意されている「仕事」とのマッチングによって実現するはずだ、という考え方は、確かに人々を終わりなき「自分探し」、すなわち終わりなき「仕事探し」という迷路に追い込んでしまう。
僕たちの外側に、僕たちの向かうべき楽園はありませんでした。
では、僕たちはどこに向かえばよいのでしょうか?
このブログを読んでいただいている方は、それが自分の内面、愛や共感や本質、創造性であることを知っています。
しかし、そこはもはや誰もが通って轍がくっきりと引かれた道ではありません。
悩み迷い、それでも行きたい。
その時に、おそらく同じように悩み苦しんだ先人の知恵が、きっと僕たちの行く道を照らしてくれるのではないでしょうか。
いよいよ、「仕事なんか生きがいにするな」は最も重要なテーマにたどり着きます。
哲学者のエーリッヒ・フロムという人がいます。
この方は、ファシズム研究の第一人者です。
「自由」という概念は、近代に誕生したものですが、ドイツ国民は、自由意志でナチスという権威を選択しました。
さあ飛び立っていきなと解き放たれた小鳥が、籠の中に戻るようなものです。
(そういう寓話があったような)
ここに、僕たちの向かう道のヒントがあるようです。
フロムは、「自由」を二つに分類しました。
「~からの自由」と「~への自由」です。
まず僕たちは、「個性はかけているが、安定感と方向付けとが与えられている状態」にあります。
親や学校に守られた状態です。
いずれ自我が芽生え、この状態を自らの意思で離れます。
これが、「~からの自由」です。
ここまでは、誰もが経験する過程です。
ところが、「さあ好きに生きて」となった時、先の見えなさに不安に駆られた僕たちは、何かに守られていた安心感が懐かしくなります。
しかし、もう親の愛や学校に守られることはありません。
それでももう一度その安心感を得ようとしたこの過程を逆行すれば、何かに服従することになる。
何かとは、「権威」です。
権威への服従です。
それが、ファシズムです。
この様子が、スターウォーズエピソード1〜3に描かれています。
権威への服従ではなく、自由を「真の自己」への入口とするために大事なのが、「~への自由」、つまり
自発性
だとフロムは語っています。
自発的な活動は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに、孤独の恐怖を克服する一つの道である。
というのは、ひとは自我の自発的な実現において、かれ自身を新しく外界に―人間、自然、自分自身に―結びつけるから。
愛はこのような自発性を構成する最も大切なものである。
しかしその愛とは、自我を相手のうちに解消するものでもなく、相手を所有してしまうことでもなく、相手を自発的に肯定し、個人的自我の確保の上に立って、個人を他者と結びつけるような愛である。
(エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」)
ついに、最重要キーワードが出てきましたw
自発的な肯定としての愛
これこそ
愛の自家発電
です。
皆さん覚えてますか?
7ヶ月間にわたったシータヒーリングのセッションで最も大きかった視点の変化の一つ。
愛は、もらって埋めるものではなく、自家発電するもの。
関連記事:目覚めのスピリチュアルセッション「朝起きたら、もう愛で満たされている」 - ナチュラルなイキカタ
「愛の自家発電」という言葉は、なんと実際に本書の129ページに登場します!
なんたる本ですか!?
ここまででも、本当に僕の経験の解説書であることがお分かりいただけるかと!
珍しく興奮していますw
さて、結論です。
人が人らしく生きるということは、人生や世界に向かって「意味」を求めるベクトルを出すこと
です。
このベクトルとは、私たちの「心」が発する「愛(自発的な肯定)」の作用
です。
私たちの「心」が、「愛」を持って物事に向かうとき、私たちは必ずや対象に「美」を見出し、また、そのに何がしかの「真理」があることを直観します。
雄大な自然を目の当たりにした時に湧き上がってくる感動は、まさに直観する「真理」と言えます。
このように、「真理とは理屈ではなく経験するもの」です。
「経験する真理」こそ「芸術」であり、「新しく蒔く種」なのです。
自分らしく生きるとは、
内面から湧き上がってくる直観にのっとって、人生や世界を自発的に肯定すること
なのですよ!!
これ重要。
超重要。
働くか働かないか、どの仕事につくかとは、一切関係ありません!
これは何も、高尚な悟りの境地の話をしているわけではありません。
武田双雲さんが、「丁寧な所作」」こそすべてのスタートだとおしゃっているように、
僕が「いつか楽になる」と今を我慢し続けることで、逆に我慢の神経が強化されて楽しみが感じられなくなったように、
関連記事:武田双雲オープンセミナーその4「この瞬間に行ける楽園」 - ナチュラルなイキカタ
「日常」を死んだ時間として過ごしてしまうと、その退屈で苦痛な時間を耐え忍ぶために感性を硬直化させることになってしまい、ある時にたとえ素晴らしい非日常的体験を得たとしても、もはやそこに十分な喜びを感じ取ることさえできなくなってしまうでしょう。
僕たちは、生きることを無条件非合理に、「心=身体」の向く方向へ、ワクワクと夢中になった経験をすでにしています。
自分の内なる子どもは、その人の内なる知の声です。この知の最初の言説が「遊び」です。この視点から,
精神科医のドナルド・ウィコットは、精神の癒しの目的を、「患者を、遊べない状態から遊べる状態にすること…個々の子どもや人が、創造的になり、個性全体を使うことができるのは遊ぶことであり、それが唯一の方法なのです。そして個人がその自己を発見するは、創造的であることにおいてのみなのです。」と明確化させています。
スティーヴン・ナハマノヴィッチ「フリープレイ」
遊びって、例えばなんの予定もたてずにどこに行くかも決めずに、どこで曲がるかすら決めずに全部ゲームにしてみるような大人の遊び。
そういえば、僕はそういうことやってた。
関連記事:【マインドフルネス】マインドフルネスに散歩して、彩り豊かな世界を発見しよう! - ナチュラルなイキカタ
僕がセッションで大事にしてるのも、この即興性!
セッションも遊びちゃー遊びかもw
どこまでも僕の体感とはっきりとシンクロした本なのでした。
遊びをせむとや生まれけむ
戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ
とは、今から約900年前の歌です。
「人生は遊びだ」とか言うと、とたんにどっかのパチンコ屋の広告みたいになるけど、もうちょっとひねって、「人生とは遊びを愛することだ」と言ってみましょうか。
ぐっち