こんにちは。ケトラーです。
400メートルハードルの日本記録保持者でオリンピックに出場した為末大さんの著書「諦める力」を読みました。
「あきらめ」という言葉には、かなり後ろ向きでネガティブなイメージがこびりついてます。
「逃げる」や「終わる」と近いイメージです。
その逆で、「あきらめない」は、「勇気がある」「根性がある」「我慢強い」「辛抱強い」と、成功への大事な条件のように語られます。
本書「諦める力」にあるように、あきらめずに頑張って成功する物語は好まれ、大々的に報道されますが、あきらめてやめた、という物語は、数としては圧倒的に多いにも関わらず、注目を集め、報道されることはまずありません。
しかし、ポジティブなイメージを持たれる「あきらめない」に執着するあまり、相性の悪い人間関係、嫌な出来事、合わない仕事、不向きな競技をいつまでも引きずってしまうこともあります。
それは、手元にある全財産100万円を、全て嫌いな人との飲み会に使っていることと同じだという話は以前書きました。
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手元にお金を残しておかないと、好きな人とは飲みに行けません。
あきらめないことが、新たな行動の制約となっています。
これでは、軽く素直に行動することは難しくなります。
大事なことのためにお金を残すためには、嫌な人との飲み会をあきらめる必要があります。
新しいことに挑戦する余地を生むための、前向きなあきらめです。
この場合、「逃げる」「終わる」というイメージよりも、「修正する」「選び直す」に近いイメージです。
「諦める力」には、そのあきらめが持つ力が、具体的な事例と合わせて分かりやすく書かれています。
「諦める力」の視点からピョンチャンオリンピックを見ると、「あきらめずに努力して成功した」というオーソドックスな物語と、少し別の物語が見えてきます。
ピョンチャンオリンピックのメダリストは13人です。
日本選手団は124人でした。
つまり、10人に1人がメダリストになることができました。
さらに、オリンピックに出場するための選考会には、オリンピック出場者の10倍程度の選手が出場しているそうです。
しかも、選考会に出場できるのも、その権利を得られた日本のトップアスリートです。
おおざっぱに計算すると、1300人のトップアスリートがいて、そのうち13人がメダリストとなることができたことになります。
1人の、挫折に打ち克ち、努力を継続してメダリストとなった物語の裏には、99人のトップアスリートの、努力がメダルに繋がらなかった物語があります。
もちろんメダルを取ることだけが結果ではなく、日本人初の入賞や、自己ベストという結果を出した方もいることと思います。
それはとても意味のあることですが、為末さんは、自分の向き不向きを見誤り、「今まで続けてきた」という呪縛に囚われ続け、やめ時を逃し、その結果、生活苦から「やめればよかった・・・」と後悔するアスリートを多く見てきたそうです。
経済学では、そのように返ってこない見返りをサンクコストと言うそうです。
多くの人は、「今までやってきた努力が水の泡になるのはもったいない」と、そのサンクコストの呪縛から非合理な選択を続けてしまうそうです。
うーん。
「いままでやってきたから」とやめ時を逃すこと。
わたし自身、思い当たるところがたくさんあります。
例えば、
つまらない本を読み続ける。
株が塩漬けになる。
昔からの友人だからと付き合いを断れない。
などなど。
では、その99人のトップアスリートは、一生懸命やらなかったのか。
「諦める力」にも書かれていますが、「やればできる」という言葉は好んで使われますが、「できていない人はやっていない」のでしょうか?
もちろんそんなことはありません。トップアスリートになるのは並大抵の努力ではないでしょう。
為末さんは言い切ります。
犠牲の対価が成功、は勘違い
だと。
そこで大事なのが、自分の限界、その道の限界、その人間関係、出来事の限界を知り、別の道を選ぶ「諦める力」です。
実は、仏教では、「あきらめる」という言葉には「真理や道理を明らかにして、見極める」という意味があるそうです。
「諦める力」にはこんな事例が紹介されています。
為末大さん自身も、陸上の花形である100メートルをあきらめ、400メートルハードルに転向し、成功しました。
ノーベル賞を受賞した山中伸弥先生も、整形外科をあきらめて研究者の道に進みました。
オリンピック4連覇を達成した伊調馨選手も、霊長類最強と言われる吉田沙保里選手に勝つことが出来ず、吉田選手の階級をあきらめ、別の階級に移りました。
結果には、運やタイミング、相性といった、私たちのコントロール外の要素も大いに関係あります。
フラれたって、就活でお祈りメールをもらったって、大学に落ちたって、選び直すという道があります。
選び直す道だけは、絶対に閉ざされることはありません。
いつ何時誰にでも開かれた道です。
努力してみて、努力ではどうにもならないことがあることを知って、さっぱりとあきらめると、心が軽くなり、解放感が生まれ、思っても見なかった別の可能性の道が開くことがあります。
新しい道に進むかどうかを選ぶのは、他人でも、会社でも、学校でもなく、「私」です。
「私」が主人公です。
私の人生だから。
子供の頃から「選ばれる側」に慣れすぎて、ついそれを忘れてしまいます。
自分の価値観も同じです。
私は、このブログで何度も、自分のカラダの声を聴き、以前の価値観に縛られることなく、ナチュラルに生きることについて書いてきました。
「諦める力」にも、同じことが書かれています。
どこかで価値観を劇的に変えないと、自分ではどうすることもない自然現象にずっと苦しめられる。その苦しみから逃れるためは、「どうしようもないことをどうにかする」という発想から、「どうにかしようがあることをどうにかする」という発想に切り替えることしかない。
努力と成功の関係と同じように、
憧れと適正は一致、は勘違い
とも言えます。
憧れ自体はがんばる力を生み出すので、もっているに越したことはないと思いますが、憧れと適正が違うことを無視して憧れに執着することは、苦しみを生むだけです。
憧れと適正が違うこと知るためには、自分で選択した道でがんばってみて挫折する体感から得られる納得以外にありません。
その中で「なんにでもなれる」という思春期特有の万能感から、自分は何者なのかと見定めていくのだと思います。
それも、場数をこなすうちに素材で鍛えられて心理的なクオリティは上がっていくのですが、日本の教育では、自分で道を選択するのが遅すぎて、就職や結婚といった、初めての選択でいきなり人生がかかってます、ということも少なくありません。
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トライアンドエラーを繰り返す期間が全然足りません。
少ない自分独自の選択の内の少ない挫折ですから、その挫折が過剰に価値を持ってしまうのも止む得ません。
多くある挫折のうちの一つであれば、その挫折もしなやかに受け止めることができます。
それしかない、この道しかないと執着すると、可能性を曇らせてしまいます。
はたして、多くの価値のある失敗、転機となる挫折、次につながる逃げ、が経験できる貴重な時期に、私たちは何をしているのでしょうか。
でも、そこにこだわるより、この瞬間をこの瞬間のために使いたいですね。
学校、仕事、スポーツ、人間関係などで行き詰まりを感じているけれど、「この分野で結果が残せなかった自分が、他の分野で成功できるはずがない」という不安や、続けることに意義があるという信念、言葉にできない抵抗がある方は、しなやかに生きるきっかけとして「諦める力」を手に取ってみてはいかがでしょうか。
何かを真剣に諦めることによって、「他人の評価」や「自分の願望」で曇った世界が晴れて、「なるほどこれが自分なのか」と見えなかったものが見えてくる。