こんにちは。
ぐっちです。
前回は、小学生から大学生までのあいだに強く残っている、
否定的な記憶について書きました。
あらためて自分の思考パターンを振り返ってみると、
それらに加えて、
学校生活を通して身につけてきた価値観や習慣が、
いまの自分の考え方に強く影響していることにも気づきました。
学校という場所では、
多くの問題に「たった一つの正解」が用意されていて、
その正解にたどり着くことを目標に、
何度も何度も繰り返し練習します。
国語の読解でも、
「筆者の意図」という正解があり、
それ以外の読み方は不正解とされることが多かったように思います。
正解か、不正解か。
1か0か。
全か無か。
この二元論が、
学校という世界の基本的なルールだったのではないでしょうか。
100点満点という正解があり、
そこから減点されていく評価の仕組みの中で、
「間違いを減らすことが最善」という考え方が、
自然と身についていきます。
この考え方が固定化すると、
「正しくない自分はダメだ」という、
かなり強い強迫観念になっていくことがあります。
正しい生徒でいよう。
正しい子どもでいよう。
正しい社会人でいよう。
正しい親でいよう。
正しい恋人でいよう。
でも、
冷静に考えてみると、
そもそも「正しさ」って、そんなに明確なものでしょうか。
言葉の使い方や文字の書き順など、
学校教育の初期には「正しさ」を集中的に教わりますが、
国や文化が変われば、
言葉そのものを「個性」として捉える社会もあります。
多少変化はしてきているとはいえ、
子ども時代の多くの時間を占める学校教育が、
「正しさ」を軸に設計されている構造自体は、
いまも大きくは変わっていないように感じます。
ところが、
社会に出てみるとどうでしょうか。
仕事の進め方にも、
家族との関係にも、
恋愛にも、
生き方そのものにも、
「唯一の正解」はほとんどありません。
その人に合う方法、
その時代に合うやり方はあっても、
1か0で割り切れるものではないことの方が圧倒的に多い。
最低限のルールを守っていれば、
もっと自由でいてもいいはずなのに、
学校で身につけた「正しさ」の物差しを、
そのまま社会に持ち込んでしまう。
その結果、
「完璧ではない自分はダメだ」と、
自分を追い詰め続けてしまう人も少なくありません。
学校では、
休まないことが健康の証として評価され、
皆勤賞が称賛される文化がありました。
でも、
社会に出ると、
体調が悪くなる前に休むこと、
疲労を溜め込まないように自分を管理することが、
むしろ大切になります。
同じ「休む」という行為でも、
求められる意味は大きく変わります。
また、
学校では、
自分の意思よりも、
教師の期待に沿って行動することが評価されがちでした。
なぜなら、
教師という存在が、
その世界における唯一の評価者だったからです。
相手の気分や期待を先読みし、
それに合わせて振る舞う。
この癖は、
就職活動や社会生活の中でも、
形を変えて残り続けます。
もちろん、
相手の気持ちを考えること自体は大切です。
ただ、
「相手の気持ち」と「自分の気持ち」を
どう折り合いをつけるかについては、
学校ではあまり教わってきませんでした。
結果として、
自分の感覚よりも、
外部の評価や空気を優先する生き方が、
当たり前のものとして残っていきます。
わたし自身も、
こうした環境の中で育ち、
いつの間にか、
・自分はいるだけで人を不快にする
・責められないことを最優先に行動しなければならない
・調子に乗ると、ろくなことが起きない
そんな考え方を、
「事実」のように信じ込んでいた時期がありました。
いま振り返れば、
それは「わたしの特徴」であって、
良い・悪いの問題ではなかったのだと思います。
自己分析をして、
過去を掘り下げて、
自分を責め続けても、
それはこれまでの人生の延長にしかなりません。
それよりも、
「そう考えやすい自分がいる」という前提に立ったうえで、
その自分が、
できるだけ自然に、
無理なく生きられるあり方を探していきたい。
いまは、そう思っています。
なお、
スキーマ(信念)に深く向き合う作業は、
専門家のサポートのもとで行うことをおすすめします。
EMDRなど、
新しい治療法も登場しており、
扱い方を誤ると負担が大きくなることもあるからです。
このブログでは、
あくまで「気づき」の共有に留めたいと思います。
つづきます。
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