こんにちは!
人生を自然で豊かにするヒントを紹介していくブログ「Restart with True Engine」のぐっちです!
ずっと暮らしの中に違和感を感じていたボクが、うつ病をきっかけにして、何度も絶望しながらも、ボクの自然な魂で、再スタートをはじめる様子をブログに書いてます(^ ^)
ボクが自分の生き方と向き合ったのは、3回の精神病がきっかけです。
適応障害、うつ状態、自律神経失調症、不安症(条件性情動反応)と診断名を変えながら、仕事を3回休職しました。
自分はもう「終わった人間」と人生を終わらせることも考えました。
それが、治療や生き方の試行錯誤を通して出会った多くの人や言葉に背中を支えられて、いまは
素の自分を引き出して心から笑って過ごしたい
と思うまでになることができました。
日常に違和感がある
なぜか生きづらい
息苦しい
自分を責める
ボクと同じように、そう考えるクセを持った方が、ボクの経験に触れて、
少しでも
「自然体で楽に生きる種」
を見つけて欲しいと願って書いています。
スタートは2017年。
うつ病治療が続き、
「ボクの人生は消化試合で、残されたエネルギーを節約して過ごしていかなければ」
と思っていた頃です。
このブログを書いているぐっちは、どういう性格でどういう人生を送ってきたか。
なにがあってうつ病になったか、どうして生き方を変えようと思ったのか。
ブログを最初から読んでいたくと分かるようになっていますが、
なにせ3年分にもなってかなりのボリュームになりました。
まず、ざっとボクという人間が俯瞰できる記事があった方が、
どういう経緯でいまその選択をしているのか
ということが分かって、
「自然体の種」
を拾いやすくなるかなと思って、ボクのことを書くことにしました。
仕事柄、詳しく書けないのこともあってもどかしいですが、それ以外はかなりあけっぴろげに書きまくってます。
ブログを通じて世界に放った目に見えるか見えないかの花粉が、
どこかでめしべと受粉する可能性があるのであれば、ボクは書き続けたいです。
これまで、2017年に一度自己紹介記事を書いて、
2019年にも自分史記事を書いてますが、
「今の自分」が変わることで、過去に対する見方も変わっていきました。
それで、随時アップデートできる記事にすることにしました。
長くなりますが、よろしければお時間のある時にお付き合いいただけるとうれしいです(^ ^)
39年のぐっち劇場は、世界初のCDが誕生した1982年からはじまります。
◯ 幼少期(1982年〜1988年)-同い年と馴染まない
1982年3月24日、新聞配達員の父と、保育士の母の三男として生まれました。
4歳上と1歳上に兄、6歳下に弟がいる男4人兄弟です。
3月生まれで同級生に比べて体力がなくて、同級生とは馴染めずに、一つ下の女の子とよく遊んでいました。
◯ 小学生(1988年〜1994年)-情緒不安定なお調子者
親戚から「嵐」と言われるくらいワチャワチャした、人を笑わせることの好きなお調子者の子供でした。
自分の思うとおりにいかないと、よく拗ねてもいました。
この頃から、
自分の感情・気持ちとの向き合うことが苦手
だったんだと思います。
どうしていいかわからないから、拗ねる。
拗ねることで一応は注目を浴びることができますから。
自分の感情と向き合う場数を踏んで、手札を持つことはすごく大事だと思います。
喜怒哀楽のない人生はなくて、怒りと哀しみを否定することは自分を否定すること。
否定して消し去るのではなくて、怒りや哀しみをうまくチューニングできるようになること。
当時の本屋はいくらでも立ち読みができました。
友達の少なかったボクは、本屋に行ってマンガを読むことと、夕方のアニメ番組が何よりの楽しみでした。
神経質な性格で、連続アニメを一話でも一瞬でも見逃すのが許せなかったです。
長兄は運動も勉強もでき、こだわりが強く、怖い存在でした。
特定の友達とは、独特の設定を作って人のいない図書室やプールの裏で遊んでいた気がします。
「拳児」という中国武術を題材にしたマンガにどハマりして、プールの裏でマンガに出てくる技や練習を真似たりしていました。
運動神経には恵まれ、足がそこそこ速く成績もまあまあよかったので、
学校で一人だけ選ばれる健康優良児というものにに選ばれたりもしてました。
小学校後半くらいから、世間ではテレビゲームが大ブームになっており、 ボクの家でもゲームを買ってからはゲームに夢中でした。
「LUNAR」というRPGにハマって、早起きして朝3時くらいからプレイしてました。
◯ 中学生(1994年〜1997年)-ボクは他人を不愉快にする
↑中学の頃の写真はあまりありません。
球技が苦手だったこともあり、1年先輩に次兄のいる陸上部に入部しました。
あいからず足はそこそこ早かったので、後に部長に。
新入生への部活説明で手塚治虫さんと陸上について話したら、それがハマったのかたくさん新入生が入ってくれました。
入学して間もなく、教室の後ろではしゃいでいたところを学年一のヤンキーに絡まれたことが、ボクのその後の一定期間の生き方を決定づけたと思います。
ヤンキーという存在との、初めての接触でした。
いまも鮮明に覚えています。
なぜ絡まれたのが理解できず、
「ボクが楽しいと他人は不愉快になる」
という観念が無意識に強化されました。
しばらく立ち直れないくらいショックでした。
以後、まず第一に他人の目線を意識して過ごすようになりました。
「他人を不愉快にさせない振る舞いとは?」
が人生の一大テーマでした。
めちゃくちゃ他人基準の生き方です。
そうなればなるほど、人との接触は疲労でしかなく、ゲームやマンガなどの自分の内に籠るようになりました。
思春期とは誰しも「一部は」そういうものかもしれません。
ですが、ボクは自分の感情との向き合うトレーニングが少なく、極端でした。
ヤンキーが嫌いで仕方ないのに、ヤンキーのことを一番考えて生きなければいけなくなったのです。
部活の県大会、前橋敷島運動場からの帰りにも、他校のヤンキーに目をつけられました。
しだいに、
「ボクという存在は、他人を不愉快にする」
という強迫観念に支配されるようになりました。
一方で、おそらくここが自分が変わるためにはとても大切なキイなのですが、
自己否定を強めるとともに
優しさ、思いやり
というボクを作るポジティブな側面を作り上げて行ったのもこの経験なのだと思います。
男4人兄弟でしたので女子との接し方が分からず、女子の目線を気にしながら、気恥ずかしさとコミュニケーションのレパートリーが少なくて、女子としゃべらない硬派なキャラクターを演じていました。
新聞配達員からトラック運転手に転職していた父親が、中学2年生の夏休み初日に近所の駐車場でガス自殺しました。
40代前半だったと思います。
兄と庭でバスケをした後、警察からかかってきた電話は、ボクがとりました。
あとから思えば、
この年の夏に予定してた家族はじめての沖縄旅行にいけなくなりそうだと言っていたことや、大学受験でセンシティブになっていた長兄に、文句を言いながら巨人戦を見ることを責められ、電気もつけない寝室で一人巨人戦を見ているなど、あきらかにおかしな様子でした。
とにかく人を喜ばせることが好きで、人から非難されることが苦手な、責任感の強い父でした。
後に知ったのは、長距離トラックの運転の仕事でベンツにぶつけてしまい、会社からパワハラ的な研修を受けさせられ、そこから様子がおかしくなったとのことでした。
突然こと過ぎて、現実感がありませんでした。
今も現実感がありません。
中学3年の時に、学年一かわいいと思っていた女子から手紙をもらい、付き合うようになりました。
毎日手紙を交換しました。
一緒に帰ったり、甘酸っぱい時間でした。
塾にも行かずたいして勉強しなくても学校の成績は良かったですが、壮大なテスト勉強の計画を立ててはテレビやゲームに逃避し、計画倒れに終わって自己嫌悪感に悶々とすることをを繰り返しました。
◯ 高校生(1997年〜2000年)-違和感
家の近くだった男子校の群馬県立館林高校に進学しました。
ボクの地元だと、県立太田高校がナンバーワンで、ボク以外の兄弟はすべて太田高校でした。
ボクはどうしても学校の勉強から逃げて。深く考えず友人もいくので推薦で行ける高校を選びました。
高校の頃の記憶はかなりおぼろげです。
新しい環境に馴染み自分のポジションを確立するため、何かのキャラづけをしなければと必死でしたが、迷走しました。
一瞬オカマキャラみたいにもなって嫌でした。
学校の勉強への興味はほとんどなかったのですが、他に何か熱中するものがあったわけでもなく、持て余した3年間でした。
宿題をやらなければと思うが、やりたくなさすぎて重い腰が上がらない。
夜机に向かってもたいして進まず、そのままいつの間にか寝てしまい朝を迎えることが何度もあり、その度に自己嫌悪に陥いりました。
ずっと同じことを繰り返してました。
何か部活に入らなければと思って、ラグビー、体操、空手と入っては面白くなく辞めて、最終的には演劇部の幽霊部品で部費でマンガを買ってました。
高校1年の時に宮崎駿監督の「もののけ姫」が公開しました。
心が震えるほど感動して、映画館に3回観に行きました。
おそらく公開中だっと思いますが、「もののけ姫」の作画監督の近藤喜文さん(「耳をすませば」の監督)が急逝し、アニメーターという仕事を知りました。
それから次第にアニメーターという仕事にあこがれを抱くようになりました。
ますますアニメにハマり、「アニメージュ」「ニュータイプ」といったアニメ雑誌や、「声優グランプリ」といった声優雑誌が愛読書でした。
たくさんアニメをビデオに撮ってコレクションしていました。
ニュージーランドからの日本語大会優勝者を受け入れる2週間のホストファミリーになる機会があり、めずらしく自分からやりたいと親にお願いしました。
英語で話しているだけで楽しかったです。
部活も続かないし、勉強も中途半端で、何者でもない悶々とした思いを吐き出すために日記を書き始めた。
日記では、「なぜ自分はこうなのか」というようなその日の出来事の分析にものすごくエネルギーを割いていました。
時には、1日分がA4用紙3枚になることもありました。
この日記は たしか8年くらい続きます。
この頃から、書くことは好きでした。
高校3年のとき、受験勉強で通っていた図書館でレンタルしていた高畑勲監督の1979年のテレビシリーズ「赤毛のアン」にものすごく感動しました。
不幸とされる出来事も捉え方ひとつで素晴らしい経験にしていくアンの発想に心動かされました。
◯ 大学生(2000年〜2004年)-アニメーターを目指す
「赤毛のアン」の監督の高畑勲さんが講師をしていた日本大学芸術学部映画学科映像コースに進学しました。
↑大学の頃の写真はほとんどありません。
当時の倍率はかなりのものだったようですが、勉強も対策もろくにしていなかったボクはラッキーでした。
はじめて群馬の実家を出て、埼玉の新所沢という場所に引っ越しました。
はじめての引っ越し、はじめての一人暮らし。
「暮らし」というもの組み立て方が分からず、とにかく家の居心地が悪かったです。
箸も、コップも、食品も、これまでなにも自分の意思で選択したことがなかったのです。
空っぽな自分を突きつけられたような気持ちでした。
孤独で仕方なかったです。
壁の薄いアパートで、隣人のステレオの音に不眠になりました。
つらくて、1年で実家に戻りました。
好きなものを探求するつもりでしたが、大学の専門課程ではインスタレーションやビデオアート、アート系映画の造詣が求められて、興味が持てなくて困りました。
ビル・ヴィオラ、ナム・ジュン・パイク、ジョナス・メカス。。。
同期たちが語るアートの世界に入れませんでした。
ボクには、独創性というヒエラルキーの競走をしているように感じられて、窮屈でした。
ボクの心は、高校の勉強から解放されて膨らむどころか、ますます内側にこもっていきました。
アニメーターになりたいと思いつつも、絵を描くことに熱中できず本格的な絵の練習からも逃げ、マンガやゲームに没頭しました。
絵が描きたい→アニメーターになりたい
ではなく
宮崎駿のようになりたい→アニメーターになりたい
という、内側から湧き上がってきたものではなくて、外側からきたあこがれが行動のベースでした。
変なプライドがありました。
思春期特有のものだと今は思います。
自分を曝け出すことで、自分の底の浅さを知られることが怖く、人との間に壁を築き、世界を広げることが出来ませんでした。
いつまでも可能性の中に生きていたい。
あいつはやったらすごいぞと思われていたい。
ある大学の課題を映像コースのみんなの前で発表した時に、
「ぐっちの言うことは何一つ入ってこない」
と言われて、
脳天をハンマーで殴られたくらいショックでした。
なかなか友達ができず、孤独でした。
そういう自分を、ずっとずっと、変えたいと思い続けていました。
長兄が京都大学大学院で、先の見えない文系院生の研究生活と、周囲のレベルとのギャップからうつ病になり、実家に戻ってきました。
次兄は就活で就活うつのような状態になりました。
この頃から、「うつ病」はボクにとって身近な存在となりました。
いまの実力でアニメーターになれるわけないと、深く考えず就職活動をしないで卒業しました。
真面目に講義に出席だけは続けていたので、卒業時、成績優秀者に送られる「優等賞」という賞を受賞しました。
◯ 22歳〜24歳(2004年〜2006年)-道が見えない
卒業後、なんの当てもなく、とりあえず近所の大手電機店チェーンでパートを始めました。
パソコンパーツを売っていました。
PentiumIII全盛期です。
「どうにかアニメーターになれるだろう」くらいに考えていました。
働いてみて、体育会系のノリも、一切研修もなく突然売り場に立たせるスタイルも、すべて嫌でした。
すごいストレスの日々でした。
入社して1ヶ月もたたない日、
ある客から
「このキーボードはPS2で使えるか?」
という質問をされました。
今はないですが、当時キーボードにはPS2という接続規格があったのでボクは「使える」と答え、客はその2000円くらいのキーボードを買っていきました。
1時間もせず、帰宅したその客からとんでもない勢いで激怒した電話がかかってきました。
「プレイステーション2で使えない( *`ω´)」
と怒鳴られまくりました。
後にも先にも、これほど怒鳴られたことはないというくらい怒鳴られました。
ボクの態度が気に食わないようでした。
ここでも、問題は
「ボクの態度」
でした。
中学1年の出来事とともに、ボクのその後のあり方を決定づける出来事でした。
ショックでかなり落ち込みました。
ボクとして、いたって普通に接客したつもりでした。
それが、人をここまで不快にさせる。つまり、
やはりボクの基本は人を不快にさせるのだ
と、いままで以上に厚い仮面をかぶってコミュニケーションをとるようになりました。
もう、その奥深くにどういう自分がいるのかは見失っていました。
理不尽な苦情にも、そのチェーンのまったくフォローのない体制にも心底嫌気がさし、3ヶ月半で退職しました。
退職してみると、
自分はついにどこの誰でもない人間になったのだ
と、猛烈な不安に襲われました。
ストレスから十二指腸潰瘍になって、体重が50キロを切りました。
当時のボクにとって、社会から認められることが最優先の価値観でした。
次兄は、民間への就職を止め、公務員になりました。
長兄も大学院で政治思想の研究者の道を諦め、家庭裁判所事務官を目指して実家に戻ってきて勉強漬けの日々を送りました。
ボクが宙ぶらりんなまま、ずっと一緒に暮らしてきた優しい祖母が亡くなりました。
楽そうだという理由で、近所に新規オープンするネットカフェでバイトを始めました。
同じくオープンスタッフだった方と仲良くなり中学3年以来に付き合うことになりました。
はじめてまともに付き合ったことから舞い上がってペアリングを買ったりしましたが、とにかく彼女からの毎日のメールの量がすさまじく(当時はガラケー)、一度始まると3時間は終わりませんでした。
毎日。
毎日です。
内容も「今日何々があった」「どこどにいった」という個人的な日記のようで「ふーん」としか言いようがなく、返信に困り、次第にメールが来たバイブ音に恐怖を覚えるようになって、3カ月で別れました。
今更ながら、このままではどんどんアニメから遠ざかっていく、どうしようという焦りから、たまたま近所の文房具屋に貼ってあったエロマンガ家のアシスタント募集の広告を見つけ、とりあえず大学の課題で作ったアニメを送って面接をしました。
そのマンガ家さんから、「東京にでないとダメだよ」と言われ、アニメーターになりたがっていた親戚も誘い、豊島区の風呂なしアパートに引っ越しました。
何をやっていいか分からず、図書館にいって絵を描いたりする生活でした。
当時はよく仏像を描いていました。
↑当時描いていた絵たち。
とにかく、「焦り」だけが全てを支配していました。
書き溜めた模写や仏像、デッサンを持ってアニメスタジオ一社を受けたが、「もっとアニメのキャラクターとかを描いたものでないと分からない」と言われ落ちました。
そりゃそうです。
一社落ちただけでしたが、アニメーターに対する憧れと生活・将来の不安でどうしていいかわけがわからなくなりました。
有名はアニメーターの過酷な生活もブレーキとなりました。
当時から彼らは月収10万程度と言われていました。
その環境は現在も大きく改善されていないようです。
大学の友人とともに大学の先生に相談し、自分の不甲斐なさや将来への不安に、練馬区のファミレスで号泣しました。
これをきっかけに、アニメーターを目指すことを止め、就職することにしました。
実家に戻り、元のネットカフェのバイトを始め、就職活動をしました。
この時、たまたまバイト仲間でボクに好意を寄せてくれる方がいて、付き合いはじめました。
付き合いも受動的でした。
なにせ仮面です。
彼女は遊びの知識が豊富で、彼女といることは楽しく、就活はそれなりにして遊んでしまいました。
就活の不安はあったので、道の標識程度のどんな些細なものでも就活を連想して不安になりました。
自業自得です。
ますます自己嫌悪に陥りました。
この繰り返しなんです。
結果、狙っていた会社にすべて落ち、失意のどん底に落ちました。
やはり自分はとことんダメな奴と後悔にさいなまれながら兄に相談したところ、狙っていた会社の別の試験が残っており、受けたところ合格できました。
東京の社員16000人の大企業です。
◯25歳〜26歳(2007年〜2008年)-就職
社会人一年目。
江東区の職場に配属になりました。
板橋区に引っ越しました。
地元で付き合っていた彼女の親が、ボクと一緒に東京に出るよう彼女に猛プッシュし、生活資金として100万まで渡して彼女も一緒に東京に出ることになり同棲をはじめることになりました。
はじめて正社員として働き、右も左もわからず、とにかく順応しようと必死でした。
言われることは何でもやりました。
周りは高齢の社員が多く、課長を含め合理性のない独自ルールばかりの理不尽な世界でした。
大学の奨学金の返済と、就活のために親から借りたお金を返すため、とにかくお金を使わないことを心がていました。
ここでも、顧客窓口にような仕事があり、苦情電話が恐怖でした。
仕事のミスを引きずることが多く、気持ちを切り替えるために彼女のすすめで近所の体育館のヨガクラスに通い始め、これが今も続くヨガのはじまりです。
彼女はもともと情緒不安定なところはありましたが、一緒に暮らしてみると顕著で、ちょっとしたことで不機嫌になり、次第に重荷に感じるようになりました。
ある時、ディズニーシーに行くために近場のホテルに前泊し、開園に間に合う電車で行くはずがボクが電車を間違えました。
それで彼女の機嫌はだだ下がり。
旅行の雰囲気は台無しでした。
◯27歳~28歳(2009年〜2010年)-仕事モード
江東区の職場から新宿本社に異動しました。
主に給与などの総務・人事的な仕事です。
仕事の内容がまったく変わり、爆発的に残業が増え、生活が激変しました。
残業は多い月で70時間。23時頃に帰ることも多くなりました。
本社には周りも優秀な人が多く、とてもついていけないと思い落ち込みました。
仕事を覚えるために休日もマックで仕事の資料を読みました。
その分、同棲していた彼女は一人の時間が多くなりました。
彼女がパートで勤めていた会社の人間関係が良くないらしく、よく愚痴を聞きましたが、仕事で疲れていたので、正直それどころではなかったです。
どうでもよくなってきました。
彼女はパートを止め、派遣で不定期に働くようになり、一人の時間を昔から好きだったネットゲームで過ごして生活も夜型となり、ボクとはすれ違いになりました。
この人はなぜここにいるんだろうと思いが強くなり、まったく別の人を好きになって気持ちが切れたことを知って別れました。
戸惑いつつも仕事は堅実にこなしていたため、会社での評価は上がっていきました。
先輩を中心としたグループで誰かの誕生日にカラオケにいったりして、職場の人間関係的には充実した時期でした。
東日本大震災を新宿の本社ビル27階で経験しました。
◯29歳(2011年)-超仕事モード
同じ部署の経理の担当になり、仕事の忙しさが爆発しました。
この時ボクが経理として一人で管理していた予算は1800億円。
しかも、4月2日に上司が精神病で休職し、上司不在ではじめての経理をやらなければならなくなりました。
新しい上司が来たのは12月でした。
一ヶ月の残業が150時間になることもあり、ほぼ仕事だけをしている日々でした。
朝の4時まで仕事をして、次の日の9時にはまた出勤しているという日もありました。
新宿のビルから見る関東平野の光景だけが、美しく悲しかった。
頭のネジを外さないとてもやっていけないと、遠慮がちだった自分は捨てました。
部署と部署の調整のような仕事なのに殺人的に忙しいことに意味を見いだせませんでした。
いつも頭が熱くて、冷やさないと眠れなくなりました。
休みは週半日くらいだったので、その半日は家で映画を観ていました。
孤独でした。
意味の見いだせない激務を2年続けることは無理だし、どうせ命を消耗するなら、なにか意味のあることをやりたいと思って、異動に被災地支援を希望しました。
尊敬する先輩が、仕事の忙しさから自暴自棄になり、浮気っぽいことをしたのが奥さんにばれて修羅場になったらしく、その勢いで飛び降り自殺しました。
◯30歳(2012年)-生きがいをもとめて被災地へ
希望通り東日本大震災の被災地へ異動できました。
着任式で代表として挨拶することになり、新聞にも取り上げられました。
いまのところ、この会社でのピークの瞬間です。
派遣された部署では、震災から1年経ってもすべてが場当たり的・非合理的、仕事のための仕事で本質的には何も解決していかないように感じました。
ただ、外に出ることで素晴らしい出会いを得ることもできました。
ここにいられるのは一年しかないという思いもあり、がむしゃらに仕事をしました。
秋にある会社の昇任試験に向けて、休みの日は勉強をしていました。
この頃まではヘビースモーカーでした。
被災地にいられる期間の1年の間に、持てるものをすべて出そうと、仕事の提案を矢継ぎ早に出し、そもそも職員の土台を変えなければと新しい研修プログラムを提案しました。
あのプログラムは今はどうなったんだろうか。
↑当時提案に使ったプレゼン資料
8月、9月、10月と、次第に会社のやることが何もかも的外れに感じ絶えずイライラするようになりました。
このころから、本を読んでも人と話していても内容が頭に入ってこなくなりました。
何も楽しくなくなってきました。
東北の冬の入り口は東京の真冬と同じでした。
ぐんと寒くなった11月のある日出社すると、電話のベルがボクの神経を刺激して、次から次に止めどなく不安が押し寄せました。
職場にいることが耐えられず、帰宅して心療内科へ行きました。
診断名は、
適応障害
でした。
3月までだった被災地での勤務期間が短縮され12月に本社の以前の職場に戻されました。
東京に帰ると、エース職員からの転落という感じでした。
みな気まずい雰囲気でした。
派遣先の病院から紹介された新宿の精神科へ通院をはじめました。
ボクは東京の自宅を引き払っており、職場が東京に手配してくれた住宅が清澄白河でした。
しばらく住んでいるうちに髪を切る必要がって、近所の若いスタッフがいそうな床屋を調べていきました。
そこで担当してくれたのが、後に妻になる理容師さんでした。
体調は最悪だったのに、不思議と落ち着きました。
東京に戻って体調は回復傾向にあったありましたが、SNSで輝く他人が気になりすぎて体調が悪化し、休職することになりました。
初めて、抗うつ薬を飲むことになりました。
群馬の実家に帰って、布団の中でひたすらネットで「笑ってはいけない」シリーズを無表情で観ていたことを覚えてます。
友人から「SNSをやめなはれ」と言われ、ハッとして止めました。
SNSにはその後7年間一切触れませんでした。
1ヶ月半で復職しました。
◯ 31歳〜32歳(2013〜2014年)-人生の春
本社を離れ、落ち着いた飯田橋にある部署に異動し、仕事も少なくなりました。
床屋で会った理容師の人の素直さに魅かれ、付き合うことになり、休みが合わないながらも日曜の夜の仕事終わりに泊まりに来たり、穏やかな日々でした。
31歳の正月に一緒に旅行した広島厳島神社でプロポーズし、彼女と結婚することになりました。
その9月に会社の昇任試験合格。
そして11月に結婚式を挙げました。
ボクたち二人の想いと様々な人のセンスが結集した結婚式は最高でした。
とても穏やかで幸せな日々でした。
疲れが溜まってくると、時々テレビの音やなんでもない刺激で急に不安に襲われることがりました。
その時は頓服用の安定剤のコンスタンを飲みました。
妻のお店があった江東区清澄白河近辺は不動産価格が高く、新居を探すことは難しく、妻の実家のリフォームをするかどうかなどでかなりゴタゴタしました。
最終的には、築40年すぎですが状態のいいマンションを35年ローンで購入しました。
はじめて、ローンのプレッシャーというものを感じました。
「ボクが体調を崩すわけにはいかない・・・」
○33歳(2015年)-うつ病
昇任と同時に再び本社に戻されました。
今度の仕事は、これまで経験した仕事とまったく毛色の違う、法務的業務、内部文書チェック業務、情報開示業務でした。
情報開示では、訳の分からない理由でいつまでも拘束するただのクレーマーに遭遇し、その相手をしているうちにやらなければならない仕事が増え、やってもやっても終わりが見えませんでした。
そして何よりも、すべて口頭伝承で何も見える化していない新しい上司のスタイルに合わず、みるみる疲弊していきました。
次第に、いつも仕事のことばかり考えるようになりました。
「この上司と1年やれるのだろうか」「これを耐えたところで、もうぐっちは大丈夫だと思われてまた殺人的に忙しくなる」と不安しかありませんでした。
今振り返ると、これまでのずっと繰り返してきたパターンのとおり、
誰かの大きな感情に過剰反応して、自分の人生を決定づけていました。
新居の引っ越しと異動から1ヶ月。
忘れようもないGW初日。
目が覚めると、布団から起き上がれなくなていました。
再発です。
うつ病の再発率は9割とも言われます。
こうしてボクの30代は、うつ病と向き合うことを宿命づけられていきました。
仕事は再休職です。
最初の休職と違い、気分のマシな日と全くダメな日の波があり、波が落ち込むたびにもう二度と良くならないのではないかと絶望する日々でした。
↑安定していた日に撮ったんだと思います。髪も髭もボサボサです。
いま冷静に振り返ると、この波を作っていたのはベンゾジアゼピン系睡眠薬のハルシオンでした。
以前はメジャーな睡眠薬でしたが、いまは使われることは少ないようです。
通院を続けていた新宿の先生は、親身に認知療法的アドバイスをくれる先生で信頼ひていましたかが、薬の処方に関してはややアバウトでした。
通院していたほぼすべての期間、
「じゃあ同じのをを出しておきますね」
と深く考えず、抗うつ薬のサインバルタ、睡眠薬のハルシオン、喉のつまりをとる「半夏厚朴湯」を処方されていました。
復職してからも、ずっと喉の詰まりだけはとれなかったのです。
通院と眠る日々でした。
うつ病の原因は霊障だと義母に誘われて、新興宗教に入信しました。
教団施設へ通うようになりました。
藁をも掴むとはこのことです。
休職して1ヶ月くらいたった頃に妻家族と出かけた先で、妻の提案で近くの犬舎を見に行き、義母が突然この子にすると大型犬を飼うことを決めました。
義母の家は以前同じ犬種を飼っていたので、2頭目でした。
5月に休職し、8月から会社の福利厚生で実施する職場復帰に向けたリワークプログラムに参加しました。
ここではじめて、このブログでも何度も紹介している「認知行動療法」や「マインドフルネス」と出会って、少しずつ病気に対するとらえ方が変化していきました。
送りバントのような地味な日々でしたが、うつ病を責めることなくいつも通りでいてくれる妻の明るさに支えらました。
休職から半年後、仕事に復帰しました。
○ 34歳〜35歳(2016年〜2017年)-ボクの人生は消化試合
再び本社を離れ、江東区の落ち着いた部署へ異動しました。
かなり落ち着いた業務分担で、少しずつ体調は回復しました。
再発予防が最優先で、エネルギー節約の心がける日々でした。
職場の人間は、とても狭い世界のためか、プライドだけが異常に高く、仕事の力の入れ所が的外れで、すぐキレる人たちで、またこういう人たちの相手をするのかと気持ちが萎えました。
会社には、心底失望しています。
OJTという名の放任主義で人を育ていることもなく、適切な人員配置もせずに仕事をしない・できない人間はいつまでも暇で、その逆の人間には極端に集中する。
既存の事務は改善せず、目立つ数字だけ全面に出して、組織的仕組み・システムの改善はせずに個々人の努力だけで乗り切る。
いまも、ボクはこれと真逆のことをやりたいと強く思っています。
共働きでボクに元気もなかったので、妻の実家で義母の用意したご飯を食べ、休日は犬の散歩をする日々でした。
妻の実家はあったかくて騒がしくて救われました。
妻が「家で母が用意するスーパーの惣菜中心の料理が許せない」ということで、ボクたちの家で食べるようになりました
かといって、献立を考えることが最大のストレスと話す妻は、何をやるわけでもありませんでしたので、献立を考えるのも、買い出しも調理もボクでした。
↑作った料理たち
休日は犬の散歩と掃除、洗濯、買い出し、調理といった家事でかなりの時間が過ぎていきました。
散々迷惑をかけた分、役に立ちたいと思っていました。
しかし、妻が家事をやることは少なく、休日も犬と出かけており、次第にボクは何のために家事をやっているのか分からなくなってきました。
だんだん、家政婦のような気持ちになってきました。
犬仲間と過ごす時間が長くなるにつれて、妻は犬を蔑ろにすることには過敏になっていきました。
「犬は自分のことができないが、人間はできる。だから犬を優先するのは当然」
と言うようになってきました。
まとまった休みでも、犬との旅行がほとんどでした。
犬との旅行はそれなりに楽しかったですが、妻と二人で過ごす時間はなくなっていきました。
ただ、犬は妻にとって大事な存在で、別に否定するものでもありません。
妻のことは好き。
犬のことも好き。
妻にとって犬は大事な存在。
でもそれを大事にすることで、ボクは寂しくなっていく。
次第に、ボクの感情が袋小路に入っていきました。
○36歳(2018年)-再発と新しい世界
抗うつ薬に関する新聞記事を読み、レクサプロに変えたいと主治医に話したところ、それよりも止めてみようとサインバルタの断薬を開始しました。
この頃から、妻と義母の関係が悪化し始めます。
義母は思い込みの激しい人だったので、「犬をお前(妻)が飼うと言ったのに、自分に世話を押し付けている」と責めるようになりました。
もちろんそんな訳はなく、義母が自分で決めたことなのですが、一度こうなると義母の考えは変わりません。
日々のこの言動に妻のストレスは溜まり、「それなら自分で飼うと言ったと思うことにしよう」と、妻は犬の世話に力を注ぐようになりました。
また、義母は妻の店の初代で、経理は義母がやっていましたが、どうも売り上げに対して借金の減りが遅すぎることなどから税理士を雇ったところ、雑な経理状況が明らかになりました。
義母を信じて自分の売り上げに対してあまりにも少ないお小遣いで何年もやっていた妻の、義母(自分の実の母)に対する信頼はこの辺ですっかりなくなったようでした。
妻はこれまで以上に頻繁に犬と旅行に出かけるようになりました。
その間もボクは家事をこなしていた。
妻はいつもピリピリしていて、何をしゃべっても非難めいているように感じられました。
5月頃に突然妻が犬と住めるマンションを人から教えてもらったと、マンションのローンが残り、いくらで売れるかも分からない状況で引越すことになり、借金がどうなるか分からない状況にぼくはナーバスになりました。
抗うつ薬の断薬症状のストレスもあって、神経過敏になり、引越してすぐ7月に3回目の休職をすることになりました。
犬の息遣いにすらイライラして仕方ありませんでした。
体調が悪化する中で、以前は病気に対してどうってことないとフラットに見守っていた妻も、今回は、「なんでこのくらいで」と不満を持っている様子でした。
妻の不満のオーラと犬のいる家にはいられず、主治医のアドバイスでボクの実家に戻りました。
群馬の実家で図書館とレンタルコミック屋さんに通う失意の日々でした。
1か月くらいして妻と話し合うことができ、犬をいったん実家に戻すことに決めてくれて、主治医も交えて話し合い、東京に戻ることになりました。
このころ、妻の紹介で初めてのシータヒーリングのセッションを受けました。
セッションを通じてこれまで続けてきたのは、「不安からの行動」だと気づき、「本心からの行動」を3カ月やってみることにしました。
もうボクの考えうる再発予防策はありとあらゆることをやったつもりでしたから、色眼鏡で判断せずとにかくなんでも試してみようという気持ちでした。
「今何を食べるか」という小さな事から、体調がどうとか、お金がどうとか、仕事がどうとかという条件を外して、「やりたいかやりたくないか」と自分に自問自答して決めてみるようにしてみました。
そして、妻が教えてくれた動画をきっかけ山口ユースケさんを知りました。
これまでだったら休職中だし、料金もそれなりなので躊躇したと思うのですが、「やりたいかやりたくないか」という軸で決めたら、「やりたかった」ので、少し迷って電話しました。
すると、普段予約でいっぱいのユースケさんが、偶然翌日の午前の枠がキャンセルで空いて予約できました。
心と体をほぐして魂を癒す鵠沼海岸のSandySPAで山口ユースケさんの施術を受けました。
心と体は車の両輪で、体がほぐれないと心もほぐれない(本心が出てこない)
ことや、
うつ病患者は感情エネルギーが大きいので、エネルギーのベクトルを変えると、ポジティブにも大きく開くこと
を知り、感動しました。
シータヒーリングのヒーラーさんに教えてもらった武田双雲さんの「ポジティブの教科書」を読んで、ポジティブは性格ではなく技術であることも知りました。
「いつか」の楽しさではなく、「今」の楽しさの先に本当の楽しさが続く
という言葉が印象に残り、後この言葉に何度も背中を支えてもらいました。
やりたいことの一環で、沖縄にノープラン一人旅にもいきました。
いままでボクは、旅行では緻密にスケジュールを組むタイプでした。
何時にチェックインするか、どこでランチを食べるか、どこにいって何分滞在するか、すべて決めていました。
そして、それから外れることにイライラしていました。
そう、ボクの人生そのものだったんです。
沖縄ノープラン一人旅では、その時その時、好きな時に起き、好きな時に好きなものを食べ、好きなだけビーチにいて、好きなところへ行く。
ノープランだから、スケジュールが変わってもなんとも思わない。
むしろ、何が起きるんだろうとワクワクすらしらしました。
感覚で動くことの楽しさを味わいました。
2ヶ月休職して、復職しました。
この頃、妻がシータヒーリングの長期セッション「Awakener Project」を受けはじめました。
島根で開催された武田双雲さんのオンラインサロン双雲塾のオープンセミナーで、9月に著作を読んだ武田双雲さんと直接会えました。
夢の持ち方、仕事の辞め方、理不尽な出来事との向き合い方など、多くの大切なヒントをもらいました。
1泊2日を共に過ごし、目の前のすべてを楽しみ味わい尽くす双雲先生の在り方に感動しました。
こういう生き方をしている人が現実にいることに衝撃を受け、これが、無条件無目的に瞬間瞬間ふくらみ続ける「生命感」(岡本太郎)だと思いました。
裏磐梯へ、毎年冬恒例の犬旅行へ2回行きました、
自分の気持ちに余裕がある範囲で、犬との時間も大切にしようと思っていました。
◯37歳(2019年)-離婚
体調も安定してきたので、抗うつ薬の再減薬を開始しました。
2回目のシータヒーリングを受ける機会があり、二元論でない究極のフラットの宇宙像、自家発電した愛で満たされていること、ネガティブな感情は自分を知るヒントという、新鮮なとらえ方に惹かれて、ボクも長期セッション「Awakener Project」を受けはじめました。
すでに「Awakener Project」を受けていた妻が、本心からやりたいこと以外は断捨離する一環で、10年続けた理容業を休業しました。
ボクは、「Awakener Project」で、自分史を書き、自分がこれまであらゆることで
他人の負の感情の大きさで自分の選択を決定する
という同じパターンを繰り返し続けてきたことに気づきました。
天皇即位に伴う長期GW休暇を利用して、「いつかを今に』の自分合言葉で、初めての海外一人旅でインドのヨガの聖地リシケシへ行きました。
↑横に流れるのはガンジス川
帰国後、神経過敏の症状が発症し、あまりにも繰り返すこと、以前本で読んでお会いしたかった精神科医が近所に開院したことから、7年通院した精神科を転院しました。
自律神経失調症ではなく、不安症の条件性情動反応という診断を受け、エクスポージャー治療を開始しました。
抗うつ薬の減薬は中断し、薬の調整が行われました。
理容店休業後も、犬との時間がますます増えていく妻に耐えられなくなり、犬と愛情について話し合いました。
ボクは自分がないがしろにされていると感じていることを伝え、妻は自分は犬のシングルマザーの気持ちだとお互いの考えを話しました。
ちょうどそのタイミングで双雲塾オープンセミナーへ妻と参加し、パートナー関係について、大切なヒントをもらいました。
しかし、その直後のボクがオンラインサロン双雲塾にボクの考えを相談する投稿をしてそれが妻を非難する内容だったため、妻の心が折れ、一切口をきかなくなりました。
これまで他人の感情で人生を決めるという同じパターンを繰り返してきたので、口の効かなくなった妻を見守ることに決め、自分のやりたいことを続けました。
口を効かなくなってから約1ヶ月。
インドで知り合った方に紹介してもらったヨガリトリートに参加して伊豆へ行っている最中に妻からLINEで離婚を切り出されました。
感情がぐちゃぐちゃになり、シータヒーリングに対する否定的な気持ちになりました。
妻に謝罪しましたが、妻の決心は変わりませんでした。
妻との話し合いから時間が経ち、
少しずつ、一過性の感情が落ちていき、妻への感謝が残ったことに気づけました。
どれだけ彼女の明るさに救われてきたか。
うつ病と向き合い、2度休職しながらも、なんとすばらしい5年間を過ごせたのか。
これは、何よりも妻の優しさ、明るさ、素直さのおかげでした。
妻が引っ越すタイミングで、ゼロからそれぞれのストーリーを作っていけるように9月に離婚しました。
◯ 38歳(2020年)-長時間労働はボクを見逃さない
同じ部署の経理の担当に異動しました。
経理は、29歳の時に壮絶な残業で疲弊した部署です。
そこほどは忙しくないにしても、これまでとは同じようにいかなくなりました。
4月・5月は新型コロナウイルスで家にいる時間が長くなったので、ずっと読みたかった本を読み、ずっとやりたかったオンライン英会話をはじめました。
夏から繁忙期に入り、これまでずっと避けてきた残業をせざるを得なくなりました。
そしてまた、ボクを決定づけようとする他人が現れたのです。
やはり、上司でした。
緊急事態宣言下では気付きませんでしたが、実際に仕事が動き出すと、彼は、
誰かが決めてくれるまで待つ
抱え込んで相談できない
業務スピードがものすごく遅い
ことに気づきました。
とりあえず目の前にある仕事を終わらせなければと、完全に立場を逆転させてバンバン指示を出して目処をつけました。
この間、心のバランスを崩しかけて久しぶりに安定剤を飲みました。
あまりに疲労がたまったのか、扁桃炎に3回なって、はじめて救急車で運ばれたこともありました。
そういうなかで、新型コロナウイルス感染対策の最前線に応援に行きました。
体調も優れず不安でしたが、人に恵まれ、スムーズな流れを味わえてとても楽しかった。
元の職場に戻ったとたん、上司が休職しました。
3人いた係が2人になり、その中で例年にない新型コロナウイルス感染症の影響によって発生した仕事をこなさなければなりませんでした。
8年前と同じで、やはり組織的なフォローはありませんでした。
以前の業務ほどもとのボリュームが異常ではありませんでしたが、それでも次第にスケジュールに追われるようになりました。
GoToトラベルキャンペーンが始まったことで、「いつかを今に」屋久島、長野、山梨、沖縄高級ホテル、都内高級ホテルとたくさんの経験ができました。
11月から、体調も安定し、それほど忙しくならないと思っていたので、3度目の断薬にトライしました。
しかし、12月頃から肉体的疲労は取れても、心の疲れが取れなくなってきました。
やたら寂しく感じるようになりました。
案件が終わっても、それを処理する間に仕事は増えていました。
この会社的には異常レベルではないですが、ボクのなかでは限界に近い22時頃まで仕事をする日々が続きました。
終わりが見えるどころか、3月までは続きそうということがわかった段階で、心が折れました。
休日も、仕事や不安のループが止まりません。
あれほど対策してきたのに。
今度こそ断薬がうまく行きそうだったのに。
次のステップを踏み出そうとしていたのに。
さまざまな思いが交錯しました。
それでも、
もはや「うつ状態」はボクの一部です。
意図せずして鼻水が出るように、ボクの体の機能がしっかりと機能したから、うつ状態になっている。
ボクは2021年もボクの一部とともに生きていきます。
長い記事を読んでいただき、ありがとうございます。
ブログ本編では、ここに書いた2011年頃から出来事・気づきをできるだけ丁寧に書いています。
もし興味をもっていただけたら、本編をお読みいただけるととてもうれしいです。
次回更新は2021年末の予定です( ^ω^ )
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