本の紹介です。
今年のお盆は天気があまり良くない予報も出ていたので、事前に村上春樹の新作をはじめ、10冊ほど本を買い込み、じっくりと読書にふける心づもりでした。
その中の1冊が、今回ご紹介する吉本ばななの代表作の1つ、『アムリタ』です。

本書によると、「アムリタ」とは、「神様が飲む水」という意味だそうで、「生きるということは、ごくごく水を飲むようなものだ」というのがこの作品全体を通じて描かれていることです。
この小説は、「美しい妹の死と、自身が頭を打って失った記憶。不思議な能力に目覚めた弟や妹の元恋人との関係に揺れながら、「半分死んだ」ように生きる主人公・朔美が、高知やサイパンへの旅を通して様々な不思議な出来事に遭遇しながらも、喪失感とともに全身で生きる幸せに気づいていく長編小説」です。
こう言ってしまうととてもおこがましいのですが、まるでこのブログに描いてきた気づきを、小説に昇華させたような素晴らしい小説でしたので、ぜひみなさんにもご紹介したいと思いました。
このブログでは、うつ病を通じて、まず自分の身体感覚を取り戻すことを書いてきましたが、この小説では、その五感の描写が、緻密に、繊細に、豊かに描かれています。
とても「血の通った」小説であるように思うのです。
私は、上っ面なものが苦手で、こうした血の通った、どこかに切実さのあるものが好きです。
あぁ、吉本ばななさんも、 五感で感じることを大切にされているんだな、そう感じます。
例えば、
その時、寂しい気持ちと海の思い出が全く同じ分量で少し消えた。
まだ、日に焼けた腕が火照っているのに、靴の中はあの素晴らしい場所の砂だらけなのに。
今さっき、目を閉じれば、まだあの人たちの笑顔が波音と一緒にこんなに強く響いているのに。
すごい子供じみた気分だった。 遠くの親戚のうちに遊びに行って、あんまり楽しかったから帰りの電車が嫌でワーワー泣いてしまう。
そんな気持ちを思い出した。
これを思い出した瞬間、あの頃経験したどんな記憶のよりよりも熱い感じを味わった。
これはあくまで一例ですが、「気持ち」と「感覚」が絶妙なバランスで結びついた表現だと思います。
人は、頭だけで生きることはできない。
頭と五感が響き合って、自分らしく豊かに生きられる。
いかに吉本ばななさんが五感を大切にしているかは、作中の妹の元恋人竜一郎の言葉にも表れています。
自らの超能力に怯える朔美の弟に向けた科白です。
俺なんか、頭使うのが職業だから、いつもその調整が大変なんだ。でも、考えちゃダメなんだ。極端な話、走るとか、泳ぐとか、そういうものでもいい位だ。今したいことに貯められなく、足が動くように調整しとかないと、頭の筋肉が熱を持って、オーバーヒートしちゃう。休めなくなるんだ。君にも多分これから過酷な運命が待っていると思うけど、何とかなるよ、こつさえつかめば。それにことによると、いろんな人にいろんなことを言われるかもしれないが、自分の体から顔を出してる奴以外の奴は、どんなにもっともらしいことを言っても、わかってくれても信じちゃだめだよ。そういう奴は、過酷な運命を知らないから、嘘の言葉でいくらでもしゃべることができるんだ。誰が本当の声で話しているか、誰がきちんと体験の分量で話しているか、顔はそういうことにこそ使わないと、死活問題だから。他の人みたいに、遊びでいられない脳の使い方を、君はしてるんだから。
「誰が本当の声で話しているか」
「誰がきちんと体験の分量で話しているか」
つまり、体感で物事を見極めていく。
頭で考えれば、朔美がサイパンで出会う超常的な経験は滑稽です。
しかし、それが自らの体感だとしたら、それはそういうものとして、体感には素直でいる。
分からなくても、日常は続いていくし、続けていく。
非常にこのブログと共鳴するところが多いと思います。
吉本ばななさんは、アカシックレコードなどのスピリチュアルに極めて造詣の深い方ですので、そうした背景もあるのかもしれません。
「自分の体から顔を出している」
というのは、自分の声がもっとも強い力を持っていて、それに突き動かされて生きているか、とも読めます。
作中ではこう表現されています。
何でもかんでも、自分で潜って取ってくるのが1番生々しい獲物なのだから。
言葉とは、つくづく生物だと思います。
論理的な言葉も必要ですが、こうした肌感覚のある、生の言葉にも触れていきたいものです。