先日、昇給についての記事を書きました。
昇給したこと自体はありがたいが、それは生活を安定させるには程遠い昇給であったというものです。
外資系なので、給料がよいと思われることがありますが、障害者雇用であることもあり、昇給しても一般雇用の高卒初任給にも及びません。
ことあるごとに会社に対して、「これでは生活の持続可能性がありません」と主張していますが、昇給のときに説明を受けたのが、そもそも日本支社全体で、「今年設定された昇給幅はここからここまでです。ぐっちさんはそのマックスです」というものでした。
いま、物価が急速に上がっているので、実質的には物価上昇分程度です。
つまり、実質賃金(昇給から物価上昇分を差し引いた賃金)は、“変わらない”と言えます。
この状況は一般雇用の同期も同じで、非常に優秀な能力をもった方を新卒採用をしていますが、この昇給には失望したようです。
私の同期は、「誤差のレベルです」と言っていました。
中小企業はまだ昇給に踏み出せていないところも多いようですが、大きな企業は若手確保のために大胆な昇給をしているなかで、この会社の若手のモチベーションが気になります。
それはそうと、この昇給幅は、私のモチベーションにも少なからず影響を与えました。
これまでは、「期待に応え続ければ、大幅に昇給する可能性があるのではないか」という“期待”によって、多少体調を犠牲にしても、これまで書いてきたような障害者雇用に適さないと思われる業務にも適用してきました。
しかし、それによって実際に反映する昇給幅の“MAX”が見えてしまった。
私の最優先は「仕事を通じて成長し、高い成果を上げ、会社に貢献する人材になること」ではありません。
「体調の範囲内(多少体調を崩しても働き続けられる難易度・ボリューム)で、長く働くこと」です。
ここは、おととしの夏に大きく方向転換しました。
この認識は、会社の上司や人事部署とも何度もすり合わせを行ってきましたが、私への期待が大きいのか、気が付くと前者の基準が優先になっていると感じます。
ここが、“見えない障害”の難しいところです。
私の障害を、外見から見抜くことはとても難しく、“一見すると健康で仕事が出来そうな人材”に見え、人間は視覚情報で物事を判断する生き物のため、気づくと(おそらく上司は無意識に)前者の基準に寄ってしまうのです。
私の感覚値では、だいたいとっても2カ月くらいでしょうか。
上司は、仕事の幅を拡げ、難易度の高い仕事をクリアし、戦力として認められ、会社に欠かせない人材になることを暗に求めてきていると感じます。
「戦力として認識されてきていますよ!」とうれしそうによく言うので。
これは、入社当初から感じていたギャップです。
そうした中、私はいま3つの業務を柱に仕事をしていますが、そのうち1つがひと段落したこともあり、新しい業務を担うこととなりました。
会社がジョブカービング(業務の切り出し)してくれたリストから、候補を選びました。
流れとしては、
①業務の概要説明を受けて見学する
②受けるかどうか上司と相談する
③引継ぎを受ける
という流れです。
ところが、①の概要説明を受けてみたところ、それが実質“引継ぎ”であり、細かい説明がはじまりました。
当初予定していた1時間を3時間以上オーバーし、4時間超の説明となり、私も大慌てで業務手順をメモして、疲弊してしまいました。
しかも、リードタイム(納期)が非常に短く、外部企業も巻き込んで1日で処理しなければならず、いつ依頼が来るかアットランダムでわかりません。
私が現在になっている業務も、リードタイムはそれほど余裕がなく、いつくるか分からない性質のもので、そうした業務を何本も抱えることに、自分のリズムで進められなくなるのではないか、と不安が高まり、週末はそのことで頭がぐるぐるになりました。
そこで、週明け上司に、
・業務説明と思っていたら実質的に引継ぎで、4時間以上に及んだ
・他の業務との兼ね合いと私の体調を考えると、リードタイムの短いものより、余裕があるものを組み合わせた方がよいと思った
旨を伝えました。
そして、今回説明を受けた業務は、お断りすることにしました。
そのとき基準になったのは、“昇給”です。
私が体調をリスクにさらして踏張ったところで、昇給がどの程度かがやっとわかったため、であれば、あるかないか分からない「昇給」ではなく、「体調を優先しよう」と結論を出せました。
新しい業務は、余裕のあるもので選び直すことになりました。
それにしても、障害者就労支援機関にも相談したところ、
「障害者雇用は昇給しないケースの方が多い」
「そもそもパートがほとんどなので、最低時給があがったタイミングで最低時給分昇給するケースが多い」
とのことでした。
昇給しただけ、私はまだマシだということです。
これはまさに変数・定数の“定数”部分だと思うのですが、障害者雇用の状況は過酷だと思います。
日本には1000万人近く障害者がいて、多くの方がそうした状況なのです。
(正社員の求人も体感値で10件に1件程度です)
別の見方をすれば、障害年金を前提とした給与水準とも言えます。
しかし、以前書いたとおり、障害年金は公的制度ではなく、各年金組合の審査によって受給が決まります。
各組合の審査によっては、不支給となることも大いにあり得ます。
そのときに、当事者の生活は、誰が保証してくれるのでしょうか。
まがりなりにも困難がありつつも働こうというその人の素晴らしい意思を、誰か尊重してくれるのでしょうか。
このいびつな構造が、根本的課題のように思うのです。
ドイツのように、法定雇用率を満たしていない企業から懲罰金を徴収し、それを原資に“待遇”を基準として、採用企業に助成金を支払う仕組みに変えていく。定数にメスを入れていく、ということが必要なのではないでしょうか。
私は、“持続可能性”とは、環境についてのみ言えることではなく(もちろん環境は重要な要素です)、あらゆる事が調和し、円滑に流れていくことだと思っています。
そうした意味で、ある特定の人間のみに富が集中するいまの状態は、社会として持続可能とは言えないと考えています。
愛や誠実さ、信頼といった自分の内なる美しい感覚を咲かせていくにも、明日の生活の不安という土壌には咲きにくいと考えています。(解説した聖人には可能かもしれませんがい、それを多くの人が会得していくことは困難です)
日々の瞑想の習慣(個人でできること)と同様に、その社会で最低限の生活を送れる安心感(社会でできること)も必要で、どちらか一方で解決することではないように思うのです。
問題は、この定数的社会課題に、「私個人としてどうやって向き合うか」です。
都庁でも、硬直したシステムの前に私はボロボロになりました。
被災地支援でも、県庁全体の組織改革を志向して挫折しました。
沖縄の観光業でも、沖縄全体の観光業の待遇改善という根本的課題に挑み、オーバーフローしました。
では、障害者という世界的な社会課題に、(体調の範囲内で)私に何ができるでしょう。
現時点で思うのは、「“壁があること”を届く方法で発信すること(表現)」ではないかと思います。
壁自体に突撃して撃沈するのではなく、「そこに壁があるぞ!」と「見えないものをできるだけ見えるようにしていく」
表象の掘り出し。
ある種の小説家、ジャーナリスト、映画監督の姿勢に近いかもしれません。
私がそこまでの表現者であるかどうかは置いておいて、姿勢としては近いのかもしれません。
そして、多くの障害といった困難の経験者が、「社会の壁」について語りたいと思っていることも感じています。
その壁と健常者と非健常者の結節点に、私は立ってみようとしているのかもしれません。
そのうちドキュメンタリーでも撮ってみたいものです。
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