私が人間関係を構築しようとする時、よく直面するのが、「不機嫌さで他人をコントロールしようとする人」です。
不機嫌さで他人をコントロールするとは、不機嫌な態度をとることで、相手の譲歩や配慮を引き出し、それも「相手が望んでやったこと」と相手に全ての行動の責任を押し付ける人です。
こうした人は、相手の罪悪感を無意識に、巧みに利用します。
おそらく、「それでうまくいった」という成功体験があるのでしょう。
私も幼少期に身に覚えがありますが、不機嫌になる=拗ねることで、自分の思い通りに事を進めようとしていました。
幼少期のコミニケーションが未熟なうちは、誰でも経験があると思います。
しかし、成年になり、言語の発達によって他のコミュニケーション手段を身につけたとしたも、「成功体験」の蓄積からそのコミュニケーションを手放せないのです。
例えば、「あえてLINEを既読にしない」という方法も、エネルギーバンパイアの常套手段です。
既読をつけずに時間を置くことで、相手を焦らせたり、「言い過ぎたかな」と罪悪感を抱かせたりして、再び自分を追いかけさせようとしている、引き止めさせようとする**「沈黙のコントロール」なのです。**
また、自分の行動に対して、強く「見返り」を求めてくるのも特徴的だと考えています。
彼らの行動は一見「尽くしてくれている」ように見えても、その裏には常に「見返りという名のみえない請求書」が隠されています。
だからこそ、こちらが少しでもその請求書の支払いを拒む(健全なNOを言う)と、「裏切られた!」と逆上して牙をむくのです。
彼、彼女らの主観では、私は悪者のはずです。
心理学で言う「Projection(投影)」や被害者意識の強い人の特徴として、「自分の不機嫌やコントロールが原因で相手が離れていった」という不都合な事実を脳内で改ざんし、「相手が一方的に悪者で、自分は傷つけられた被害者だ」というストーリーにすり替えるという性質があるそうです。
そう思い込むことで、自分の未熟さ(不機嫌さで人をコントロールしようとしたこと)と向き合う痛みを回避し、自分のプライド(自己正当化)を必死に守っているのです。
最近もありました。
みなさんも経験したことがあるのではないでしょうか?
自覚的になってみると、非常に多く出会うな、というのが実感です。
以前の私は、その表現に対して、「私自身にどういう原因があるのだろう」と思い悩んで消耗していました。
しかし、自分がコントロールできることと、できないことに境界線を引くようになり、そうした相手に対して、
「不機嫌という表現を選んでいるのは相手の課題であり、私はそうした相手から大切な自分を守ろう」
と、距離をとることを選択するようになりました。
実際、長く続いている関係は、こうした表現を土台としておらず、こうした表現を取る人とは、遅かれ早かれ縁は切れています。
私がもたないからです。
私たちは、人間関係の初期において、しばしば「この人とは気が合う」という心地よい錯覚を抱きます。
お互いに社会的な仮面(ペルソナ)を被り、もっとも美しい部分だけを見せ合っている「ハネムーン期」のうちは、すべてが円滑に進むように思えるからです。
しかし、関係性が一歩深まったとき、あるいは自分自身が「健全なNO(境界線)」を提示したときに、相手の「本質」は突如として牙をむきます。
昨日まで穏やかだった人が、自分の思い通りにならないと分かった途端、幼稚な不機嫌さでこちらをコントロールしようとし始める。
さらに距離を置こうとすると、今度は「罪悪感」を植え付けるような極端な論理を持ち出して、こちらの精神を揺さぶってくる。
いわゆる**「エネルギーバンパイア」**と呼ばれる人々です。
彼らは他者のエネルギーを吸い取り、自分の心の空洞を埋めようとします。
仮にその穴を他者が埋めようとしたところで、それは一時的で、すぐに穴が出現するため、終わりがなく、相手のエネルギーを奪い尽くし、相手からシャットダウンされるまで続くためです。
客観的に見れば、それは言葉で対等に交渉することを放棄した、極端に未熟で幼稚な感情表現にすぎません。
しかし、なぜ彼らは私たちの前に現れ、そして私たちは彼らを惹きつけてしまうのでしょうか。
先ほど述べたように、私は「自分に何か原因があるのだろうか」と、自省のレンズを自分に向けてしまっていました。
だが、本質はそこにはありません。
彼らが近づいてくるのは、こちらに非があるからではなく、こちらが持つ「美徳」を本能的に嗅ぎつけるからです。
私の同僚然り。
他者を理解しようとする深い包容力、物事を丸く収めようとする真面目さ、そして誠実な優しさ。
エネルギーバンパイアたちは、その「心の器の広さ」を見初め、「この人なら私の理不尽な甘えや不機嫌も、すべて受け止めて機嫌を取ってくれるだろう」と過剰な期待(投影)を抱いて寄ってくるのです。
心の器の広さは、美徳であるし、私はそういう人でありたいと望んでいます。
ですから、その性質を放棄するつもりはありません。
これは、美徳が招いてしまった、関係性のミスマッチにすぎません。
私たちが学ぶべきなのは、自分を責めることではなく、**「相手を理解すること」と「自分の世界に受け入れること」を明確に切り離す**という智慧なのです。
心理学的な背景を知れば、相手がなぜそのような幼稚な行動に走るのか、その脆弱さや見捨てられ不安を「理解」することはできます。
しかし、「理解できること」と「その理不尽に付き合ってあげること」は全く別の話です。
「なるほど、あなたはそういう未熟さを抱えているのですね」と頭で理解したら、次の瞬間には「ですが、私の世界にその不機嫌さは必要ありません」と、冷徹にシャッターを下ろしていいのではないでしょうか。
「不機嫌」という通貨は、私の世界では流通させない。
どれほど極端な言葉で揺さぶられようとも、そこに感情のエネルギーを1ミリも投資せず、ただの淡々とした「事務処理」として冷ややかに幕を引くこと。
それこそが、自分の内なる平穏を守り、自立した生き方を貫くための、大人の境界線の引き方なのだと思うのです。
奪い合う関係から身を引き、自らのエネルギーを、それを真っ当に分かち合える対等な存在のために使う。
その自己決定こそが、私たちをよりシンプルで心地よい生き方へと導いてくれると信じて判断していきます。
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