私の会社では、「ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)」も企業理念に掲げています。
多様性を認め合い、誰もが生き生きと働ける環境をつくろう、という綺麗なスローガンです。
その理念自体に反対する人は少ないと思います。
しかし、その綺麗にパッケージされた言葉の裏側で、時折、言いようのない「重み」を感じることがあるのも事実です。
それが、理念と実態の乖離です。
私が毎週出席している英語学習の時間に、「あなたがD&Iのリーダーになるためには、Aさんと話す必要がある」と言われました。
Aさんは私に差別的な発言と思われる発言をこの英語学習の時間にした人です。
しかし、この期待は、**「当事者なんだから、あなたが主体的に動いて、周りの理解を変えていってね」**という、無言の期待に感じられます。
こうしたことを言われるたびに、私は私の心に重い石を乗せられてるような感覚に陥るのです。
その一方で、こうした学びを深めるための気づきの機会を得るために、あえて障害をオープンにし、多様性への貢献を公言している側面もあります。
さて、相互理解のために、障害のある自分自身が主体的にコミュニケーションを取り、相手の認知を変えていく必要があるのでしょうか?
結論から言えば、それは強力なアプローチになり得るかもしれませんが、決して「業務」や「義務」「役割」にされてはならないと思うのです。
むしろ、気が向いたら少しやってもいいかな、くらいの塩梅がちょうどいいように思います。
奪われるエネルギーと「マイノリティ・タックス」
心理学や社会学の言葉に、**「マイノリティ・タックス(社会的少数者が負う負担)」**というものがあるそうです。
マジョリティ(多数派)に属する人たちが日常で支払う必要のない、目に見えない心理的・社会的なコストのことだそうです。
自分が自分であるための、マイノリティとしての存在を認めてもらうためのコストと言えばいいでしょうか。
障害者は、自分の毎日の業務を淡々とこなすだけでも、それなりのエネルギーが必要です。
それに加えて、「差別されるかもしれないリスク」を冒しながら、「相手を教育し、説得する役割」まで背負わされるとしたら、それはあまりにも負担が大きすぎます。
この相互非対称性が、障害者施策が進みにくい背景にはあるように思います。
環境を整え、誰もが安心して働ける土台をつくるのは、本来は「組織(会社)」の責任であるはずだからです。
ここも、仕組みの課題だと考えます。
障害者が安心して働け、発信できる環境を整えることによって、それぞれがそれぞれの個性に応じた活躍ができるでしょう。
その責任が、いつの間にか「当事者の主体性」というポジティブな言葉にすり替えられ、個人に丸投げされてはいないでしょうか?
主体性、つまり積極的な行動を期待するのは、ただ自分が自分であるために、周囲の理解を得なければならない、ということを期待しているのと同じです。
コアラがコアラであるためには、コアラであることを説得して回らなければならないのと同じです。
非障害者が、自分の趣味がその趣味であることを常に説明し、理解してもらわなければならないとしたらどうでしょうか?
この、説明への積極的行動の期待は、こうした寄与の前提への理解を求める労力を払うことの、無自覚な圧力なのです。
D&Iを標榜する外資系企業ですら、この丸投げを感じることが多くあります。
### 「何もしない」という主体性
その期待を「重い」と感じているなら、すべてを正面から受け止める必要はないのだと思います。
周りを啓発したり、架け橋になったりすることだけが主体性ではありません。
「自分の持ち場を守り、自分の仕事を淡々とこなすこと」
それも、立派なひとつの主体的な生き方です。
相手を変えようと躍起になる必要もなければ、職場の全員に理解されようと消耗する必要もないのです。
大切なのは、自分のエネルギーの残量を見つめながら、心地よい「境界線(バウンダリー)」を引くこと。
この、境界線の調整こそ、自分が生きている実感を得る、最大のキーであると考えています。
それは一定ではなく、その時その時の境界線がある不定形なものです。
エネルギーが足りないと感じるなら、一時的にコミュニケーションのシャッターを半分下ろして、業務的な関わりだけに徹したっていい。
自分を守ることは、決して逃げではありません。
それもまた、前向きな一つのあり方であり、そのあり方を受容する社会が、真にD&Iだと思うのです。
### 私たちの「自然な在り方」
「主体性」という言葉に振り回されそうになるときこそ、自分の内面の声に耳を傾けるようにします。
誰かの意識を変えるための道具として生きるのではなく、一人の人間として、ただそこに在ること。
組織の綺麗ごとから一歩身を引いて、自分の心と体の安全を最優先にすること。
誰もが「自然な在り方(Natural Way)」でいられる場所は、誰かに強制された主体性の先ではなく、自分自身が引いた静かな境界線の内側にあるのだと思います。
誰かの期待に応えることはやめました。
私は、私なりの在り方であろうと思います。
その自由が私自身に委ねられていることこそ、尊厳と言うのだと思います。