これまで、このブログでは、東京編では主にメンタルヘルスや組織が疲弊する構造について書き、沖縄編ではメンタルヘルスと組織マネジメントの共通点、つまり、マクロ的にはあらゆることについてつながりがあることについて書いてきました。
そして、群馬編では精神障害者となった私が、障害者とは何なのかの(毎度そうだが結果的に)探求する様子を書いています。
前回までの、障害者3シリーズも踏まえ、AIの力も借りながら、おぼろげに見えだした世界線がありますので、今回は群馬に帰ってきて、障害者となって1年半でまとめられそうな部分まで書きながら整理していきたいと思います。
私はわりとそういうタイプなのですが、なにか結論が見えて書いているというよりも、書きながら整理していくタイプです。
そのプロセスにお付き合いいただいている読者の方には感謝です。
1. 課題の構造化
私がこれまで提示してきた(愚痴ってきた)、障害者雇用(つまりある種の障害者の社会参加)の課題は、大きく以下の5層に整理できます。
(1)理解レイヤー
一つ目であり、最も大きな課題と考えているのが、理解のレイヤーです。
これは、具体的には以下のような点です。
・障害理解不足(外見主義・誤認)
・自己発信の過剰要求(「普通さ」を障害者側が証明しなければならない)
・心理的安全性の低さ
・人間関係負荷(特に障害者同士の過剰接続)
障害者が社会参加するためには、理解・配慮が不可欠ですが、逆に言うと、理解・配慮があれば、障害者の可能性は大きく開かれます。
ところが、「配慮」が個人努力化していることが問題なのです。
すると、属人的な個々の配慮の程度によって、関わる障害者の可能性は大きく異なることになります。
(2)経済レイヤー
次に大きな課題が、経済のレイヤーです。
これは、具体的には以下のような点です。
・低賃金(年収160~280万円程度)
・正社員機会の不足(体感で約1割)
・業務と賃金の不連動
・障害年金前提の給与設計という歪み
つまり、日本の障害者制度自体が、個人や誰か(家族など)に依存した仕組みを根本的に持っており、「自立可能な所得設計になっていない」という問題があります。
(3)業務設計レイヤー
次に、業務設計のレイヤーです。
これは、障害者がどのように社会参加するかと言い換えることもできます。
・業務が「単純 or 高度」の二極
・スモールステップの欠如
・やりがいの欠如 or 無理な高度化
これらは、「ジョブ設計(業務を曖昧にしないで、レベルや給与整理した“設計図”を作ること)」が存在していないこと、による課題と分析できます。
(4)マネジメント・評価レイヤー
4つ目は、評価のレイヤーです。
これは、障害者を非障害者がどう「見るか」という視点でもあります。
・評価基準の不透明さ
・担当者依存(属人化)
・「見守り」→「監視」への変質
・関係性と評価が未分離
このブログで繰り返し書いてきた、「日本は仕組みではなく情緒や空気感を大事にする」傾向が、ここでも見て取れます。
障害者に対しても、制度ではなく“人”で運用されているからです。
(5)働き方適応レイヤー
最後に、働き方のレイヤーです。
障害者は、その様態は多種多様であるため、多様の働き方のオプションにより働き続けることができます。
しかし、以下のような課題があると考えています。
・在宅勤務の選択肢を取れるところが少ない
・コミュニケーション負荷が過剰
・見えない障害ゆえの誤解
つまり、障害者雇用においては、環境調整・整備が決定的に重要だということです。
2. 問題の本質(構造)
これまでに書いてきたことを統合すると、本質は一つに集約されるのではないかと思います。
それは、
「障害者雇用が“人への配慮”ではなく、“構造設計”として成立していない」
ということです。
日本における課題は、障害者に限らずこの「構造設計」という一点の視点にほぼ集約されると感じています。
人手不足の残業(個々の努力)でのカバーなどはその最たるものです。
その結果、生産性があがって豊かになるどころか、子育てする余裕すらなくなり、少子化になり、人手不足になり、それをまた労働時間でカバーしようとするという悪循環に陥り、社会の持続可能性を損ねているように私は感じています。
3. 海外優良事例の要点
以前にも書いた、こうした問いに対して、ドイツの事例は非常に示唆的です。
<ドイツモデルの本質>
・雇用率5%義務+未達企業への拠出金
・罰金を支援財源に再配分
・重度障害者の重み付け
ドイツが重要視していると思われるのは、
雇用しない=コスト
雇用する=利益
という「仕組み」であり、欧米共通の思想としては、「障害=個人の問題」ではなく、「環境との相互作用」として捉えるというものがあるように感じます。
つまり、合理的配慮=“例外対応”ではなく“設計要素”であるということです。
これは、私の実感とも一致ます。
障害者も、環境さえ整えば「生産性」は発揮可能です。
「生産性」と言ってしまうとやや機械的ですが、「生きがい」を持って、会社の理念実現に貢献しながら働くことは可能ではないかと言うことです。
精神疾患は、「心の弱さ」であったり、「社会における例外的存在」であったり、様々な誤解をされます。
しかし、現実的には患者数は増え続けています。
また、次第に言及されるようになってきましたが、「夫がバリバリ働き、妻は主婦として支え、子どもは2人くらい、一戸建てを買ってローンを払っている」という日本社会が前提とするロールモデルこそ、「例外的」な存在となりつつあります。
何が言いたいかというと、うつ病は確かにとてもつらい病気ではありますが、障害や様々な立場・状況・状態を前提とした場合、そのつらさの本質は、「本人のとらえ方」とともに、「社会の構造」という両輪で生み出されているのではないか、ということです。
どれだけ病気のとらえ方をメタ認知で複眼的に捉えたとしても、社会の構造を不変のものと捉えた場合、それはブラック企業の存在も不変と言っているようなものです。
私たちの考えや捉え方が変化するように、社会の構造も柔軟に変化していく、と捉えるのがベストではないかもしれないが、ベターな気がします。
これまで、メンタルヘルスや哲学的視点から、病気を捉えようとしてきました。
それは素晴らしいことで、多くの気づきがありました。
しかし、障害者として「社会的な立場」のレイヤーが変わることによって直面しているのは、「構造」というレイヤーであるように思います。
これをすべて本人の問題として語ることは、すべてを本人の責任の問題として語ってしまうことになることに気づきました。
それは極めて大事な側面でもありますが、障害といった本人の意思や選択によらない要因(ある種の不条理)は、構造によってフォローすることで、私がこのブログの初期の頃に書いたような、「肩の力が抜け、足りているものに満足し、小さなことを楽しむ、しなやかで強い心を持った自分」は実現するのではないか、というのが現時点でも私の仮説です。
というのも、以前書いた「自由は一定の制限の下に成立する」という自由の在り方のように、明日の生活に不安を抱える中で、自分の在り方にフォーカスすることはとても難しく、一部の仙人的存在にしか成しえないと思われるからです。
少なくとも、80年では短すぎる!
それがまったく不可能だとは思わないし、自分の病気がすべて環境のせいだと思いません。
また、「自分の在り方」が環境を作っている、という発想があることも理解しているし、一部ではたしかにそうだとも思います。
しかし、それがすべてだとは思わなくなりました。
現在の社会はかなりの人にとって機能している一方で、特定の条件においては機能不全を起こす場面があると思われるのです。
人が生きる上で、変数(自分の在り方)と定数(他人、社会など)があり、変数にフォーカスすることで理想の生き方に近づく、という考えにも触れてきました。
そこにも説得力があり、私は沖縄でその考え方をベースにまい進してきました。
しかし、それを止めたのは、まさにその「定数(沖縄観光の構造的問題)」だったように思います。
私は、その「定数」にアタックし始めたときに、うつ病を再発することが多かったのです。
それは、その「定数」が、多様性や病気を受け入れない構造、壁として機能していたからなのかもしれません。
誰もが変数にしか着目しなければ、社会は変容せず、問題は問題のままで、女性には参政権がないままだったでしょう。
実際に私が政治家になるかどうかは別として、その点について「こうあったらどうか」と言及することは妨げられないと思うのです。
これまでは、「自分の在り方」が「自分の環境」に反映するスピリチュアル思考を持ち(繰り返しますが、それはそれで大事なことです)、構造に言及することを避けていましたが、これは、自分の責任を放棄することとは別のレイヤーにある気がしてなりません。
なぜなら、「自分の在り方」が「自分の環境」に反映するという考えに触れるとき、それは多くが「成功事例」であり、その背景には、同様の条件下にあっても実現しなかった多くのケースが存在すると考えられるからです。
(為末大さんの「諦める力」でみたように)
例えば、障害者が「自分の在り方」が「自分の環境」に反映するという成功モデルを語っているのを、私のリサーチ力が足らないだけかもしれませんが、聞いたことがりません。
構造の問題を指摘することは、個人の責任を否定するものではありません。
むしろ、個人の努力が適切に報われるための前提条件を整える営みであると思います。
在り方と環境は対立するものではなく、相互に影響しあう関係にあり、人の生きやすさは「個人の在り方」と「社会の設計」の相互作用によって生まれ、そのどちらにも調整の余地があるというのが今の私が立っている地点です。
上座部なのか大乗なのか、というテーマにも通じるものがあるような気がします。
どっちかじゃないんだよ!どっちもなんだよ!
4. 日本における具体的改善策
それでは、具体的な日本における構造の改善について考えてみたいと思います。
① 制度改革(マクロ)
・雇用率 → 「報酬連動型」に変更
現行:雇用人数のみ
改善:給与水準、定着率、職務レベルをスコア化
→「質」を評価
・最低待遇ラインの設定
年収300万円ラインの制度化
→「生活できる雇用」に転換
・企業間再分配モデル
未達企業→拠出金
達成企業→助成
→ドイツ型の輸入
② 企業設計(ミクロ)
・ジョブ・カービング(既存の仕事を“人に合う形に切り出す”こと)の制度化
業務分解 → 難易度段階設計で「中間業務」を必ず作る
→「単純↔高度」の間を埋める
・キャリア段階表の明文化
Lv1:単純作業
Lv2:補助業務
Lv3:専門補助
Lv4:自立業務
→賃金と連動させる
・評価と関係の分離
上司 ≠ 評価者とし、第三者評価導入
→心理的安全性確保
・担当者の複数化
HR+現場+外部支援
→属人性排除
③ マネジメント改善
・「合理的配慮」を義務化・定義化
例:コミュニケーション時間制限、在宅選択、接触頻度設計
→私の行った対策などを「制度」に昇格
・発信負担の軽減
定型ヒアリング導入、定期アセスメント
→「言える人だけが得する」構造を是正
・障害者同士の距離設計
相性考慮配置
依存構造の遮断
→「善意の破綻」を防ぐ
④ 働き方設計
・ハイブリッド勤務標準化
週1出社+在宅 が最適解
→「最適負荷設計」
・コミュニケーション設計
非同期コミュニケーション推進、会議制限、SNS制御
→情緒的過負荷を防ぐ
以上は、あくまで私の経験を踏まえた提案です。
要は、それぞれの特性に応じた、多様なオプションを「社会が」「仕組みとして」用意しておくことが重要だと思います。
5. 総括:理想モデル
以上の整理を踏まえると、障害者の働き方はこう定義し直されないでしょうか?
日本モデルの提案:「配慮される人」ではなく「適切に設計された環境で働く人」へ
6. 障害者とは何か
これまで、障害、特に雇用について考察をしてきました。
最後の、その核心である「障害者とは何か」について考えてみます。
これまでの整理を踏まえると、
障害者とは、
「社会の標準的設計からのズレにより、過剰な適合コストを制度・慣行・無意識の前提の積み重ねによって継続的に負担させられている状態、またはその状態に置かれた人」
と言うことができるように思います。
超簡単に言うと、
「世の中が“普通の人向け”に作られているせいで、一部の人だけ余計に頑張らないといけない状態」
ということです。
構造側からみた障害です。
以前書いた通り、日本では10人に1人が障害者です。
多かれ少なかれ程度や形は異なりますが、誰もが環境とのズレを抱えうる存在であり、そのズレが社会参加を著しく制限する場合に「障害」として顕在化します。
障害者とは特別な存在ではありません。
障害者を「例外的なコスト」ではなく、「環境設計によって可能性が開かれる人」と捉え直す試みは、何か大きな示唆をあたえてくれるように思います。
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