前回の記事では、「寛容のパラドックス」という概念を用いて、社会に無意識に存在する偏見の構造について考えました。
英語学習のファシリテーターが言うには、発言の当事者と直接的に聞いたわけではないが話し合ったところ、彼は親切な人なので、英語での表現がうまくなかったことによる誤解ではないかとのことでした。
しかし、わたしがその時に傷ついたことは事実で、この件は、「発言者への評価」は切り離して掘り下げる意味のあるテーマな気がします。
というのも、私には、ひとつ疑問が浮かびました。
社会は「多様性」を掲げ、思想的には偏見は排除されるよう成熟してきているにも関わらず、なぜ「社会の空気(偏見や差別)」がそれに勝って機能してしまうのか?
要するに、なくならないのか?
わたしたちの社会でしばしば、「個人の思想的成熟」や「身体感覚的な実感」よりも、“社会の常識”“空気”“構造”“みんなの都合”が優先されてしまうのはなぜなのか。。
これは、多くの場面で見ることですし、わたしは精神障害の当事者として直面するだけでなく、東京都庁での声の大きい人の対応や、沖縄のマネジメントにおける「空気」による圧力などでも経験してきました。
そして、わたしは毎回それに対して「個」の力で対応しようとして、押しつぶされてきました。
そして、こうしたことをケーススタディに、よりこの自分自身のテーマを深堀りしてみようと思ったのです。
結論としては、これは単なる精神論ではなく、個が社会に追い越されてしまう(ナチスドイツなど)という、近代以降の社会が抱え続けてきた構造的問題なのではないかということです。
そしてその中で私たち一人ひとりがどんな「態度」を取りうるのかを考えてみたいと思います。
なぜ個人の成熟よりも「社会構造」が優先されてしまうのか
理由は非常にシンプルで、しかし深いと思います。
1. 社会は“維持”を求め、個人は“変化”を求めるから
社会は本質的に「安定装置」です。
逆に言うと、社会という安全装置を発明したことによって、人間は生存競争を生き残り、その「成功体験」と積み重ねたものが生き残ってより安全装置を強固にしてきたと言えます。
ホモサピエンスが社会的であり、ネアンデルタールが相対的にそうではなかったためにホモサピエンスが生存競争を残ったという研究結果もあると聞きました。
よって、多数決・慣習・制度は、“変化より維持”を優先するように設計されているということができます。
一方、個人の内側で起こる成熟や身体感覚は、しばしば社会常識と食い違い、その食い違いは社会構造から外れた「ノイズ」として扱われます。
2. 構造的問題は、言語化されない限り『存在しない』扱いになる
社会は“問題として認識されたもの”しか扱いません。
もっと具体的に感覚的に分かりやすく言うと、「人間は目に見えるものしか信じられない」ということ。
ですから、認識されるためには、必ず「言語」が必要になります。
構造的問題は、言語化されない限り問題として扱われません。
これは教育、労働、ジェンダー、医療、福祉などあらゆる領域で見られ、それを多くの苦しみを乗り越え言語化することによって、それぞれの領域で潜在的な社会構造を背景にした苦しみを取り除く努力が行われてきました。
言語化されていない苦しみは、「個人の弱さ」「わがまま」「適応力不足」として片付けられがちです。
3. 「身体感覚」や「実感」は社会化されにくい
身体感覚・違和感・疲労・不安。
これらは社会制度よりも遅れて扱われるし、共有されづらいです。
しかし成熟とは本来、身体感覚が自分を導く力を持ち始めることではないでしょうか。
アーレント:私たちは“考えないとき”に暴力や同調に流される
ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』や『イエルサレムのアイヒマン』で“思考停止が暴力を生む”という鋭い洞察を残しました。
彼女の主張はこうです。
人は「悪意」ではなく「思考の欠如」で残酷になれる。
社会のルールをただ反復する人は、個人として成熟していない。
熟考しないと、社会の構造に“飲み込まれる”
つまり、個が社会に優先されるのは、個人が「考える習慣」を奪われるときに起こるというのです。
アーレントは“個人が考えることの政治性”を強調した哲学者です。
ハイデガー:「世間のまなざし」が私たちを“平均的な人間”にしてしまう
ハイデガーは『存在と時間』でDas Man(ダス・マン=世間の人々)という概念を提示しました。
わたしたちは「みんながそうしているから」で行動することが極めて多いです。特に日本では。
自分で考えているつもりでも、実は“世間の声”を繰り返しているだけ(思考のショートカットとして)。
この状態をハイデガーは「非本来的」と呼びます。
社会構造が個を追い越す理由は、私たちが常に「世間の基準」に回収されるからです。
本来の自分に立ち返るには、自分の実存(生きているという事実)を見つめ直す勇気が必要になるというのがハイデガーの考え方です。
このブログで考察してきたこととも非常に共鳴する考え方です。
メルロ=ポンティ:世界は“身体を通して”経験される
メルロ=ポンティは現象学の中でも「身体性」を中心に据えた哲学者です。
社会構造や常識は抽象的ですが、このブログでも見てきたように、私たちの実感・気づき・成熟は、すべて身体を通して得られます。
違和感
恐れ
疲労
喜び
やりたい気持ち
やりたくない気持ち
これらの身体的サインこそ、個人の成熟の最前線です。
しかし社会は身体感覚より「説明できるもの」を優先します。
その方が確実性が高いからです。
メルロ=ポンティ的視点に立つと、身体の声は社会構造よりも古く、根源的で、信頼できる、ということになります。
個人がとれるスタンス:自分の痛みを「ケーススタディ」に昇華する
では、社会構造が強く、身体感覚が軽視されがちな世界で、私は、どんな態度を取れるのでしょうか。
① まず、自分の痛みを否定しない
身体の違和感は、社会の問題を知らせる“センサー”です。
メルロ=ポンティ的に言えば、身体の声は世界を読み解く第一資料です。
② 痛みをそのままにせず、言語化する
アーレントの言う「思考」とは、痛みを言葉にして内側で反芻する行為に近いと思います。
言語化することで、構造を“問題として扱える”ようになります。
③ 「世間の声」ではなく、自分の声を基準にする
ハイデガー的に言えば、Das Man から距離を取り、“本来性”へ向き直る行為。
完璧にできなくてもよい。
距離を取ろうとするその意志こそが成熟です。
④ 自分の痛みをケーススタディにし、他者と共有する
これは、最も重要なスタンスで、わたしが今回トライしようとしているスタンスでもあります。
自分だけの経験を、社会全体の問題として扱う「一つのケース」として共有する。
この態度は、わたし自身の痛みを、構造的理解の材料に変えてくれます。
痛みを「資源」に変えてしまうのです。
成熟とは、社会と身体のあいだに“自分の場所”をつくること
アーレントは「考えること」の重要性を示し、ハイデガーは「世間の力」を分析し、メルロ=ポンティは「身体の声」を世界への入り口として捉えました。
この三者を合わせると、成熟とはこう表現できるのではないでしょうか。
成熟とは、強力な社会構造に押し流されず、身体感覚から本来の自分を立ち上げ、その中間に「自分自身の立ち位置(態度)」をつくること。
そしてその態度は、自分の成長につながる気づきをケーススタディとして扱う勇気から始まるのかもしれません。