わたしは障害をオープンにしています。
それは、「障害者」というレッテルのその先にあるものが見てみたいからです。
そして、その先にある「多様性」とは何かを知りたいからです。
Facebookでも障害を公表し(その結果「友達」を外した人もいます)、会社でも、どういう障害なのか、どういう特性があるのか、まで含めてオープンにしています。
そうして発信すると、様々な反発、誤解と遭遇することがあります。
反発、誤解を受けるのは、わたしが発信しているからです。
それはもはやセットと言っていい。
これまで記事に書いてきたように、沖縄でも経験しました。
ですから、それを受けるということ=わたしが動いている、と逆説的に、肯定的に捉えることができます。
スピリチュアルな言葉で言うと、「好転反応」です。
そして、そうしたものに遭遇したとき、「距離を置く」という大事な選択肢もありますし、違和感があればそれこそ、「言葉のその先」、「わたしの心のコア」に近づくチャンスです。
英語学習のために、毎週参加している会社の英語のフリートーク会があります。
今週のトピックは「ステレオタイプ」でした。
最初のスピーカーとして立候補したわたしは、自分自身の経験を交えて話をしました。
「障害者には多くのステレオタイプがつきまとっている」ということ。
「怖い」「努力が足りない」「働けない」……。
それらは多くの場合、無知からくる誤解であり、実際には障害者にももちろん多様な生き方があり、自立している人もたくさんいる。
大切なのは、属性ではなく「一人の人間」として見ることではないか、と。
すると、一人の参加者が言いました。
「それぞれがどう思うか自体は自由だから、それを『確認する』というプロセスが大切だと思う」
その瞬間、言葉にできない重い違和感に、言葉、いや、時自体が止まりました。
だからこそ、「これは材料だぞ」と直感的に思ったのです。
そして、夜になり、ゆっくりこの言葉から、「多様性」について掘り下げる時間(ブログを書く時間)を作りました。
多様性の名の下に隠れるもの
「何を思うかは個人の自由」
この言葉は一見、とても正しく、民主的に聞こえます。
このブログでも、「他人はコントロールできない(だから自分のコントロールできる自分自身の行動にフォーカスする)」と書いてきました。
まして、多様性とは「違い」を受け入れることでもあるはずです。
彼の発言は、多様性を尊重しているように聞こえます。
けれど、何かが決定的に違う、とわたしの直感が言いました。
「障害者は努力が足りない」という偏見の根源となりうる思考を、単なる「自由な思考」の枠に収めてしまっていいのだろうか。
それは個人の自由の範囲を超えて、誰かの尊厳を削り取る「暴力」の種になりはしないか。
「確認」という名の権力勾配
さらに彼が言った「確認すればいい」という言葉。
わたしはそこに、無意識の潜在的な「視線の非対称性」を感じのだと思います。
それは、「確認する側」と「確認される側」という非対称性です。
確認する側は、常に安全な場所にいるマジョリティ(多数派)。
確認される側は、常に「自分はまともである」「自分は努力している」と証明し続けなければならない。
その関係性は、果たして対等といえるのでしょうか?
対等でない関係が、多様であると言えるのでしょうか?
その構造を維持したまま「確認することが大切」と語ることは、多様性とは程遠い、一方的な「査定」ではないかと思わずにはいられません。
寛容が不寛容を許すとき
彼の言った「どう思うかは自由」は一見リベラルで倫理的に聞こえます。
哲学の世界にはカール・ポパーという人が提唱した「寛容のパラドックス」という言葉があるそうです。
寛容とは、今回のケースのように「あらゆる価値観を尊重すること」とイメージされる言葉です。
しかし、不寛容なものに対してまで無制限に寛容であり続けると、最終的には寛容そのものが滅ぼされてしまうのが「不寛容のパラドックス」です。
つまり、寛容さには「不寛容は寛容しない」という制限がある。
制限のない自由はない。
「偏見を持つ自由」を認め、それを「多様性の一部」として受け入れてしまったら、「偏見を受ける者の尊厳」はどこへ行くのでしょうか。
それは、自由という言葉を盾に、一方的に誰かの自由を奪う姿勢です。
どこかの国に似ていますね。
多様性とは、何でもかんでも受け入れることではないのです。
例えば、殺人をイメージすることは自由ですが、それを何らかの形で表明することは自由ではありません。
「障害者は怖い」といったステレオタイプは、単なる「個人の感想」に留まりません。
それは、相手を劣った存在、あるいは排除すべき対象として定義する「暴力性を孕んだ思考」です。
それを「自由」の名の下に放置することは、結果として「他者の尊厳」を侵害することを許容してしまいます。
多様性の真意
寛容がパラドックスを持っているように、「多様性=あらゆる意見を肯定すること」と誤解されがちですが、本来の多様性とは、「属性(障害、人種、性別など)によって、個人の可能性や尊厳が奪われない状態」を指すのだと思います。
つまり、あらゆる個人の可能性や尊厳が失われない範囲で、意見の存在を受け止めること。
今回の「思うのは自由」という発想は、「不寛容」までをも倫理的に擬態し「多様性」としてパッケージ化しようとしています。
これは、多様性の障壁を壊すのではなく、「偏見を持つ権利」を守るための盾として機能してしましいます。
おそらく、発言した本人はそこまで考えていない。
これが偏見の根深さです。
違和感というコンパス
繰り返しますが、わたしは、その場では何も言い返せませんでした。
「自由」という正義の皮を被った理屈に、私の言葉は行き場を失ってしまったのです。
ただその違和感は、大事なことを教えてくれました。
「個人の思考はコントロールできない」というのは心理学的な事実ですが、「その思考が社会的に表明されたり、他者への評価として機能したりすること」については、明確にNOと言う。
「何を思っても自由」という言葉で思考を停止させず、「その思考が他者(の権利や存在)にどのような影響を及ぼすか」を問い続けること。
その上で、思考の自由を保つこと。
それが、本来の寛容であり、本来の多様性の姿ではないのか、ということを気づかせてくれました。
そして、この対話の気づきが、どのようにわたしという在り方の道になっていくのか、それこそがわたしのテーマなのです。
もう一つ大事なこと。
これは、個人で戦う問題ではありません。
わたし個人が、世間に対して、潜在的偏見に対して、「毎回これを説明する役割」は負担が大きすぎます。
弱い立場にある人が「説明役」「啓発役」を担う構造は、DEI(Diversity, Equity & Inclusion )の世界では、二次的な不公平(二次差別)と言われるそうです。
ですから、その背景にある構造を理解し、構造・組織に対して、チームプレーで対処することが大切だと思います。
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