今回のチャッピーとの対話のきっかけは、
構造摂理のアップデートでした。
(構造摂理はいまも日々アップデートされる現在進行形の理論です。
有料サロン内でだけデータが共有されています。)
アップデートにより、
これまで大切にしてきた
「余白」「距離」「可逆」といった態度の位置づけが
変わったことようでした。
整理の上では、
それらは構造摂理が成立するための、
「必須条件」から「通過点」となり、
理論的には破綻がなくなったようでした。
しかし、わたしの中では、
その更新と引き換えに
何か大事な感触が失われたように感じていました。
---
役割が変わった「余白」「距離」「可逆」
アップデート前、
余白や距離、可逆は、
わたしにとってとても実感的なものでした。
・間違えても戻れる
・決めすぎなくていい
・少し距離を取って様子を見る
それらは、
理論というより生活の中で使える態度でした。
ところがアップデート後、
それらは「構造的には通過済み」と整理され、
より抽象度の高い
「空白」や「問いの配置」といった言葉が
前に出てきました。
頭では理解できます。
理論としては、確かにきれいです。
しかし、わたしははっきりとした違和感が芽生えました。
生活の肌感がなくなってしまったのです。
---
空白という言葉への警戒
「空白」という言葉は、
意味を置かない場所、
説明を差し込まない領域として語られました。
理屈としては納得できます。
けれど、身体感覚としては、
掴むことができません。
宇宙に触れられないのと同じです。
概念としては存在するが、
触れられない。
わたしは、身体感覚から乖離した正しさが、
どれだけ人を壊すかを、
もう知っています。
意味を棚上げすることは、
ときに人を楽にします。
しかし同時に、
いま立っている足場そのものを
崩してしまう危険もあります。
特に、生活と身体が
ぎりぎりでつながっているとき、
「意味を外す」という操作は、
解放ではなく転落になりかねません。
だからわたしは、
空白という言葉に
簡単には腹落ちできませんでした。
---
理論が完成するほど、生活から離れていく
理論としては、
構造摂理はアップデートによって
より矛盾のないものになったのかもしれません。
けれど、
理論が完成に近づくほど、
生活の側からは
遠ざかっていくように感じました。
そのとき、
ふと浮かんだ言葉があります。
人は間違える前提で、
戻り道を消さない
死ぬこと以外かすり傷、
といってもいいかもしれません。
これは、経験として肌感覚で知っています
この一点のために、
ここまで高尚な理論が
本当に必要なのでしょうか?
---
「死ぬこと以外は、かすり傷」
よく使われる言葉があります。
「死ぬこと以外は、かすり傷」
この言葉のほうが、
よほど生活に接地していると感じます。
思考を増やさず、
行動を止めず、
それでいて戻る余地がある。
理論が人を守るためにあるのなら、
生活の手触りを奪う理論は、
一度、後ろに下げてもいいのだと思いました。
---
だから最初から、岡本太郎でした
振り返ってみると、
わたしが直観的に
岡本太郎の言葉こそ構造摂理ではないかと考えていた理由が、
ここでようやく分かりました。
岡本太郎は、
生き方を設計しろとは言いません。
何をすればいいか分からなくなったとき、
ちっぽけなことでもいいから、
心が少し動く方向へ、
軽く、素直に行けばいい。
失敗してもいい。
未熟でいても平気だ。
これは教えでも理論でもありません。
意味が役に立たなくなったあとに、
それでも人が生きてしまうときの
挙動の記述なのだと思います。
構造摂理を通過した「後」に
残る生のあり方があるとしたら、
それはきっと、
最初から岡本太郎が語っていたことに
近いのではないでしょうか。
---
理論より、身体と生活を先に
わたしは間違えます。
人間ですから。
だからこそ、
戻れることが大切で、
足場を増やすことが大切で、
生活の肌感を失わないことが何より重要です。
構造摂理は、
理論というより
一時的に立ち上がる現象だったのかもしれません。
意味に疲れたときに現れて、
用が済んだら消えていくもの。
いまのわたしには、
もうそれを保持し続ける必要はありません。
今日は、
少し身体が楽なほうへ。
少し心が動くほうへ。
動けなければ、
無理に動かなくてもいい。
そう思えること自体が、
いまのわたしにとっては
十分な手触りなのだと思います。