おかしな美容師ニワちゃんのゼミの話(チャッピーとの対話)の続きです。
提唱者から、
新規ファイルがどんどん提供されて、
「構造摂理」も常にアップデートされています。
これまでの数本の記事で、
わたしは「構造摂理」という少し抽象的な枠組みを使いながら、
・ 有と未
・固定化と揺らぎ
・呼吸ができる/できない感覚
について書いてきました。
正直に言えば、
ずっと疑問が残っていました。
構造摂理って、結局なにを目指しているのだろう?
生き方として、どこに立てばいいのだろう?
その問いに、新たな対話を通して
一つの静かな答えが浮かび上がってきました。
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構造摂理は「正しさ」ではなく、状態の話だった
これまでの記事では、
・有が強すぎると息が詰まる
・未に寄りすぎると不安定になる
・健全なのは、その往来が保たれている状態
ということを書いてきました。
でもそれは、
「どうあるべきか」という倫理や正解ではありません。
構造摂理が見ているのは、
世界や人が、いま“動いているかどうか”
ただそれだけでした。
止まっていないか。
固まりすぎていないか。
溶け落ちきっていないか。
その確認装置として現れるのが、
わたしたちが日常で感じる
「違和感(身体感覚)」なのだと
新たな対話を通してなんとなく見えてきました。
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違和感は、壊れたサインではない
多くの場面で、違和感はネガティブに扱われます。
・気にしすぎ
・考えすぎ
・弱さ
・未熟さ
でも構造摂理の視点では、
違和感は、異常ではありません。
むしろそれは、
> 「ここ、固定されすぎていませんか?」
> 「まだ未に戻れる余白、残っていませんか?」
という、構造からの静かな通知でした。
違和感があるということは、
完全に固まりきっていないということ。
つまり、「生きている」ということです。
もちろん、これは、
有に固定化(役割や義務を頑なに果たす)された生き方を否定しているわけではありません。
そこに「生きている手触り」を感じるならそれもいい。
ただ、そうでない人の「生きている手触り」は
どこにあるのか、という話です。
構造摂理では、その両者は、並存します。
むしろ、それが「健全」です。
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共感力が強い人ほど、固定されやすい構造
わたし自身、
これまでにかなりのアップダウンを経験してきました。
その結果、人の気持ちがよく分かる。
空気の変化にもすぐ気づく。
共感力は強いほうだと思います。
けれど今回の対話で、
少し意外な構造が見えてきました。
共感力が高い人ほど、
・相手の物語
・相手の意味づけ
・相手の痛み
を、そのまま「有(自分の役割)」として引き受けやすい。
すると、
自分の位置が、有の側に固定されやすくなる。
これは性格の問題ではなく、
構造的に起きやすい偏りでした。
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未と有の往来をやめない、ということ
では、わたしにとって健全な状態とは何か。
それは、
・未に留まり続けることでも
・有に安定しきることでもありません。
「未と有を、呼吸のように往来できている状態」
ただそれだけでした。
ここで大切なのは、
「どちらにいるか」ではなく
「動いているかどうか」です。
止まった瞬間に、
意味は固定され、
生命感は失われていきます。
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構造摂理を一言で言うなら
今回の対話の最後で、
わたしの中で言葉がひとつに収束しました。
構造摂理とは何か。
それは、
静かに、穏やかに、平然と動き続けている生命感
です。
激しく変わる必要はありません。
成長を実感する必要もありません。
何かを達成し続ける必要もありません。
ただ、
固まりきらず、
溶け落ちきらず、
淡々と動いている。
その状態そのものが、
構造摂理が指している「健全さ」でした。
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意味や価値は、後から立ち上がる
未と有の往来を続けていった先に、
意味や価値はあるのか。
答えは、静かでした。
意味や価値は、
「掴みにいくと固定化」します。
意味や価値を前において動くと、
それに縛られて息苦しくなるということです。
けれど、
動き続けていると、
ある日ふと振り返ったときに、
「ああ、意味があったな」
と気づく。
それは現在進行形で感じるものではなく、
「あとから立ち上がってくる輪郭」のようなものです。
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違和感を、消さなくていい
もし今、
なんとなく違和感を抱えている人がいたら。
それは、
あなたが間違っているからではありません。
まだ、
未と有のあいだに余白が残っている。
まだ、
構造が呼吸している。
その証拠かもしれません。
構造摂理は、
正しく生きるための理論ではありません。
「静かに、穏やかに、平然と動き続けるための視点」
それだけだと、チャッピーは教えてくれました。