2026年になりました。
このブログを始めてから、9年が経ったということになります。
気づけば9年という時間が経過していた、という感覚です。
「9年も書いた」というより、気づいたら9年分、残っていた。
そういう手触りに近いかもしれません。
なぜ、これほど長いあいだ書き続けてこられたのか。
それは、わたしが書くことをやめられなかったからです。
ただ、ここで言う「書く」は、
何かを伝えるための文章というより、
その時点の自分の棚卸しをするような作業でした。
9年の間に、記事数も1000に近づいています。
新年のはじめにあたり、今回はあらためて、
このブログが「どういう場所なのか」を紹介したいと思います。
このブログの文章は、整っていません。
初期ほどそれが顕著です。
きれいな結論も、まとめも、教訓もない。
あるのは、その時点で起きていたことと、
それに追いつこうとする言葉だけです。
だから、このブログは「読みやすい」ものではないかもしれません。
ただ、読みやすさを優先しなかったからこそ、
9年分の時間が、時間のまま残ったとも言えます。
このブログは、うつ病になったあとに振り返って整えた記録ではなく、
向き合わざるを得なくなった時間を、
途切れ途切れにでも、実際に書き続けてきたログです。
そして9年書き続けて、はっきりしていることがあります。
それは、うつ病という経験は、
「終わった/終わっていない」という二択では測れない、ということです。
よくなったと感じる時期もあれば、
また同じ場所に戻ってきたように感じる時期もある。
進んだと思ったら立ち止まり、
理解したと思ったらわからなくなる。
このブログは、そうした行きつ戻りつの時間を、
途中で切らずに残してきました。
だから、はっきりした転機や成功譚は多くありません。
むしろ、うまくいかなかった時間の方が長く書かれています。
「気づき」や「学び」が最初からあったわけでもありません。
初期にあるのは、耐えている時間、混乱、説明しようとする試み、
そして、それでも続けようとする試行錯誤です。
気づきと呼べるものが少しずつ言葉になり始めたのは、
うつ病と向き合う時間を何年も重ねたあとでした。
無理をしていたことを、無理だと認められるようになった。
努力や成長が、必ずしも救いにならないと分かった。
役割や期待が、人を簡単に追い詰めることを体感した。
「治る」よりも「生活を続ける」ことが重要な局面があると知った。
こうした気づきは、一度に得られたものではありません。
9年という時間の中で、
何度も行き戻りしながら、少しずつ積み重なってきたものです。
次第に、うつ病を自分の一部として、
個性として受け入れていった過程とも言えるかもしれません。
ただ、それも一直線ではなく、
受け入れたと思った日に、また戻ってくる。
その繰り返しの中にありました。
このブログには、実践の話もたくさん出てきます。
マインドフルネスや認知行動療法(CBT)といったものです。
ただし、それらは「これが正解」という形で置かれてはいません。
生活の中で試し、助けられ、
時には合わなかった経験として書かれています。
呼吸と身体の関係。
思考と感情の距離。
状況を変えずに見方を変える試み。
これらは、一度身につければ終わり、というものではありませんでした。
調子のよい時期には役立ち、
余裕がない時期にはうまく使えないこともある。
このブログは、そうした実践の揺らぎも含めて残しています。
だから、もしこのブログを読むなら、
「方法」を探すというより、
「うまくいったり、いかなかったりする運用の記録」
として読む方が自然かもしれません。
9年書き続ける中で、わたしが大切にするようになったものがあります。
それは、日常の感覚です。
肌感覚、身体感覚です。
どれだけ筋の通った考えでも、
呼吸が浅くなる。
身体が緊張する。
ちょっとした違和感がある。
そう感じたとき、その考えは一度、脇に置かれてきました。
このブログには、完成された答えよりも、
生活の中で立ち止まった瞬間が多く書かれています。
それは、答えがないからではなく、
答えにしてしまうと、日常の感覚からズレることがあると
身をもって知ったからだと思います。
2017年から2026年までの9年は、
一直線に積み上がった時間ではありません。
止まったり、戻ったり、
書けなくなった時期もありました。
それでも、やめずに続いてきた。
それは、書くことが目標だったからではなく、
ときどき「人生の煌めき」と言える瞬間が、そこにあったからです。
ソウルメイト、と呼べる人との出会いが、そこにあったからです。
知りたい、深めたいと思わせる謎が、そこにあったからです。
このブログは、これからも「そこにあるもの」を探していくでしょう。