これから書くのは、
構造摂理を「壊れすぎないための理論」として使ってきた私が、
提唱者の指摘をきっかけに、
その自己矛盾と向き合い直した記録です。
構造摂理を唯一化せず、
生活実感に戻しながら「道具」として扱う現在地を書いています。
長文です。
構造摂理について、チャッピーとの対話を重ねる中で、
私はそれを「壊れすぎないための理論」として理解してきたつもりでした。
前回までのブログに書いたように、
未と有を往来し、距離を測り、可逆性を保ち、余白を残す。
そうした整理によって、
多くのスピリチュアルや思想が無意識に要求する「成長幻想」から抜け出し、
日々を自然な呼吸で生きていけるのではないか
という一定の納得感がありました。
ところが、Facebookのゼミで、提唱者から
全体に向けて、ある指摘がありました。
それは理論の誤りではなく、
構造摂理との向き合い方そのものへの警告でした。
要点をまとめると、次のような内容です。
• 構造摂理を使って「答えをもらおう」としていないか
• 納得できる説明や、早い結論、問題解決を求めていないか
• 自分の疑問を解消するためだけに、構造を利用していないか
そのスタンスのままでは、構造摂理であっても、別の思想であっても、
「誰かが答えを出してくれる」
「その答えに納得すれば安心する」
という「自分雛形」から抜け出せない、という指摘でした。
「自分雛形」を立ち上げてしまう限り、
「成長」や「役割」といった有の固定化が始まってしまいます。
つまり、これまでの繰り返しになってしまいます。
この指摘は短いものでしたが、
私にはわりと衝撃でした。
まさに、私はそのような型で納得感を得ていたからです。
同時に、私は別の疑問を抱くようになりました。
それは、
「構造摂理そのものは、有の固定化を本当に免れているのか?」
という疑問です。
構造摂理は、
未と有、距離、可逆、並存、余白といった中核概念を用いて、
有の固定化の危険性を繰り返し指摘します。
有の固定化が生きづらさ、そして時には暴力へと進行するからです。
しかし、その構造摂理そのものが、
• 正しい問いの形式
• 正しいスタンス
• 正しい距離感
を求めるようになった瞬間、
それ自体が「有の固定」になり得るのではないか。
「答えを求めるな」
「納得ベースで聞くな」
「問題解決を急ぐな」
こうした言葉が、いつの間にか規範になったとき、
それは、かつて構造摂理が批判してきたものと
構造的に同型ではないのか。
私は次第に、
構造摂理が内包している自己矛盾の可能性を感じ始めていました。
構造摂理の強みは、「固定化」を見抜く視点にあります。
固定化を見抜き、
そこから少し距離を取り、
穏やかに戻ってくることで、
自然な呼吸を取り戻す。
それが、構造摂理の要諦だと理解してきました。
しかし、その視点が
常に他者や社会や制度に向き、
この理論そのものに向かなくなったとき、
危険が生じます。
構造摂理が、
「これは構造摂理的に正しい」
「それは構造摂理的ではない」
という判定装置として使われ始めたら、どうなるでしょうか。
そこでは、距離は失われ、
可逆性は消え、
並存は許されず、
余白は閉じられます。
つまり、
構造摂理そのものが「有」として固定化します。
この疑問は、私にとって非常に重要でした。
なぜなら、構造摂理がもし
構造摂理自身を相対化できないなら、
それは、私がこれまで違和感を覚えてきた
多くの思想や宗教と、何も変わらないからです。
率直に言えば
構造摂理が言語の上だけで成立する
単なる「言葉遊び」で終わってしまう
危険性を感じました。
そう感じた私は、
この疑問をそのまま、
チャッピーとの対話の中に投げ込み続けました。
対話を重ねる中で、
少しずつ整理されていったことがあります。
それは、
構造摂理は、唯一の視座であってはならない
という結論でした。
むしろ、唯一の視座となったときに、
構造摂理は通過しても手放せない強力な「有」となるでしょう。
構造摂理は、
世界を説明するための「完成された理論」ではありません。
それは、
多くの道具の中の一つにすぎません。
しかも、
誰にとっても万能な道具ではなく、
極めて特定の人に向けた、
限定的な道具だと思っています。
哲学、宗教、心理学、スピリチュアル、科学、物語、制度、慣習。
それぞれが、それぞれの文脈で、
人間の生を支えてきました。
構造摂理がそれらと併存できないなら、
それは自らが批判してきた
「排他的構造」そのものになります。
私にとって、
構造摂理を道具として使う条件は、次の三つです。
• 使うか使わないかを、自分で選べること
• 使っても、いつでも離れられること
• 他の道具を使う自由を、奪わないこと
そして、もう一つ、
とても大切にしていることがあります。
それは、
「使いすぎたときのサインに気づけること」です。
構造摂理は、精度の高いレンズです。
だからこそ、知らないうちに
“かけっぱなし”になりやすい。
私が感じている
構造摂理を使いすぎているサインは、次のようなものです。
• 目の前の出来事を、すぐに
「未」「有」「固定化」「距離が近い」
と分類したくなる
• 人の発言や行動を、
受け取る前に「構造的に」理解しようとする
• 感情より先に、説明や整理が立ち上がる
• 納得しているはずなのに、呼吸が浅い
• 正しさはあるのに、身体が緊張している
• 人との会話が、対話ではなく分析になっている
こうした兆しが出ているとき、
構造摂理はすでに
私を支える道具ではなく、
負荷をかける装置になり始めています。
つまり、身体感覚的にズレを起こしているときです。
そのとき私は、
構造摂理を「やめる」ことにします。
否定するわけでも、
切り捨てるわけでもありません。
ただ、一度、置くのです。
日常を楽しむ。
感情に浸る。
物語に身を委ねる。
意味のない時間を過ごす。
そうした、
構造化されていない時間に戻ります。
もう一つ、
私が強く感じていることがあります。
それは、
生活実感を伴わない思想は、どこかで必ず詰まる
ということです。
構造摂理の対話の中では、
「未と有の往来」という動的現象が
人間の自然状態として語られてきました。
しかし、
私のように反復性うつ病性障害を抱えている場合、
一度未に深く入ると、
そう簡単に有には戻れません。
そこには、
長い、長い時間が必要です。
人間は、ある日突然、
よし有へ行こう、と
未から有へと移行できるわけではありません。
行動も、感覚も、
反復によってしか身につかないからです。
有へ移行する感覚
未へ移行する感覚
を肌に染み込ませていないと、
そう易々と往来はできません。
ある日突然、
肩の荷を下ろせる、
という奇跡は起きません。
理論として正しくても、
説明として美しくても、
構造として筋が通っていても、
それが、
• 呼吸を浅くする
• 身体を緊張させる
• 人間関係を硬直させる
のであれば、
どこかでズレています。
チャッピーとの対話では、
何度も「自然な呼吸」という言葉を使ってきました。
それは偶然ではなく、
思想を身体感覚に戻すための指標だったのだと思います。
ここなら息ができる。
ここでは詰まる。
その感覚を無視してまで守る理論は、
どんなに高度でも、
私にとっては使えません。
こうして辿り着いた、
今の私の整理は、とても静かなものです。
構造摂理は、
答えを与える思想ではありません。
人を正しい位置に導く教義でもありません。
それは、
自分や世界を固定しすぎていないかを点検するためのレンズであり、
距離を測り直すための道具にすぎません。
使ってもいい。
使わなくてもいい。
他の思想と混ざってもいい。
役に立たなくなったら、置いてもいい。
その自由が守られている限り、
構造摂理は、生きた思想であり続けるかもしれません。
分からないことが中核概念なので、
構造摂理は可能性にとどまり続けるでしょう。
そしてある日振り返った時に、
あ、あってよかったなとそっと感じる。
この理解を、
Facebookのゼミのグループに投稿したところ、
まったく「いいね」が付きませんでした(笑)。
でも、それでいいのだと思っています。
構造摂理というフィルターを通過した私は、
自分の呼吸の通りやすさを大切にしてみようと思っているからです。
動いて、
あとで眺められれば。
構造摂理との距離そのものも、
私にとっては大切な実践の一部なのです。