続けられるかたちを探して  ―うつ病というわたしの一部―

何度も壊れて、そのたびに生き方を作り直してきました。 うつ病とともに働き、休み、 障害者として社会と向き合う今があります。 「頑張れば報われる」から降りた先で見えた、 無理をしない生き方のメモ。 ここは、立ち止まってもいい人のための場所です。

成長し続けなくてもいい——壊れにくく生きるという視点

2025年の終わりに。

 

これまで私は、
このブログでマインドフルネスや認知行動療法(CBT)、アクセプタンス・コミットメント・セラピー(ACT)について書いてきました。

 

どれも実際に学び、実践し、助けられてきた方法です。

 

だからこそ、はっきり書いておきたいことがあります。

 

それらを学んでも、うつ病は再発しました。

 

この事実は、簡単に扱えるものではありませんでした。

 

再発という言葉には、どこか「失敗」や「後退」のニュアンスがまとわりつくからです。

 

しかし今は、この再発を、
別の角度から捉え直しています。


それが、前回登場した「構造摂理」で繰り返し語られている、

「再発しない」ことを目標にするのではなく、
「壊れにくくする」ことを考える。

という思想です。

 

マインドフルネスによって、
思考と距離を取る感覚は確かに身につきました。

 

CBTでは、
自動思考や認知の癖に気づき、問い直す力を得ました。

 

ACTでは、不快感を消そうとするのではなく、
価値に沿って生きるという姿勢を学びました。

 

再発前の私は、「何も知らなかった頃」よりも、
明らかに自分の状態を把握できていたと思います。

 

把握できた自分に基づき、
より自然体で生きられるようになったと思います。

 

無理をしている兆しにも気づけていましたし、
不調が出ても過度に抵抗しない態度も持っていました。

 

それでも、少しずつ消耗し、
ある地点で限界を超えるのです。

 

この経験は、私に一つの問いを突きつけました。

 

内面の扱い方としては、
ある程度できていても、
「壊れる」ことはあるのではないか。

 

再発後、私は自分に問いました。

 

この経験をどのように学びにしていくか?

 

学びには終わりはありません。

 

おそらくこの人生は、
魂の学びなのだと理解しようとしていました。

 

しかし、「学び」には、
「価値」「目標」「ゴール」
という「到達点」の概念とセットです。

 

それはやはり、
「いまの自分は不十分である」
という自己否定とセットと言わざるを得ません。

 

構造摂理は、
その点を、
「心の問題というより、置かれていた構造の問題」
と捉えます。

 

どれだけ心を整えても、
近づきすぎ、戻れず、役割が固定された構造(構造摂理では「有」と呼びます)の中にいれば、
消耗が続くのは自然なのではないか。

 

そんな時期に、これまで登場したおかしな美容師ニワちゃんからオンラインゼミに誘われました。

 

「ぐっちさんにぜひ参加してほしい」という、
熱いオファーに心は動きました。

 

テーマは「構造摂理」。

 

構造摂理は、
前回書いた通り、
超難解でした。

 

ただ、繰り返し語られていた一つの視点が、
再発の経験と強く重なりました。

 

問題は、人の内面ではなく、
構造が限界点に達したところに現れる。

 

構造摂理とは、
「人や社会に起きる問題を、個人の性格や努力不足としてではなく、
関係性や配置、距離の取り方といった”構造の問題”として捉える視点」です。

 

大切なのは、
正しくあることや、うまく対処することではなく、
その構造は壊れにくいかどうか。

 

構造摂理は、
症状をなくす理論でも、悟りに至る思想でもありません。

 

揺れや破綻が起きる前提に立ったうえで、
致命的に壊れない条件を探る試みです。

 

構造摂理で最初に点検されるのが「距離」です。

 

再発前の私は、
仕事でも人間関係でも距離を詰めすぎていました。

 

これが、同じような人が私の前に現れて、
その関係性に消耗し、
私が壊れる、
という繰り返しのパターンでした。

 

仕事では、無意識に
「自分がやった方が早い」
「ここは自分が引き取るべきだ」
と考え、役割の境界を越えて関わっていました。

 

人間関係では、
相手の感情を先回りして読み、
衝突を避けるために自分を引っ込めていました。

 

これらは既存の価値観では、
善意や責任感として評価されやすい行動です。

 

しかし構造的には、「近づき続ける配置」でした。

 

この「距離」という考え方は、
以前取り上げた老子の道教における「水」の捉え方とよく重なります。

うつ病治療から浮かんだ言葉が、春秋戦国時代の中国とつながる。 - Restart with True Engine

 

老子は、水を「争わず、逆らわず、しかしすべてを穿つもの」と描きました。

 

水は形を主張せず、器に合わせ、無理に押し返しません。

 

構造摂理における距離とは、
この水のように、近づきすぎず、固着しない振る舞いに近いのだと感じています。

 

次に重要なのが「可逆」です。

 

再発前の私は、
一度引き受けた役割を降りにくく、
関係性を緩めにくい状態にありました。

 

「今さらやめたら迷惑がかかる」
「途中で降りるのは無責任だ」

こうした前提が、「構造」として組み込まれていました。
(構造摂理的には「有」が強すぎる、固定化された状態)

 

構造摂理では、
「戻れるかどうか」が非常に重視されます。

 

水は、行き止まりにぶつかれば引き返し、
高い場所に無理にとどまろうとしません。

 

可逆性は逃げではなく、
長期的に壊れないための安全装置だと整理されます。

 

次に大切なのが、
「並存」です。

 

私は長い間、どこかで、
「分かり合うこと」が人間関係の基本だと思っていました。

 

私を理解してほしい、多様性を理解してほしい、
と本能的に欲求していました。

 

そして、その期待が裏切られて、

1人落ち込む。

 

分かろうとするほど踏み込み、
理解しようとするほど境界が曖昧になり、
消耗していくことが多くありました。

 

構造摂理では、
一致や共感を前提にしません。

 

共感とは、

壊れにくい距離で

同じ場に存在し続けること。

 

意見が違っても
感じ方が違っても
価値観が違っても

「同じ場に存在することはできる」

これが「並存」という考え方です。

 

ここで思い出されたのが、以前取り上げた
岡本太郎の生命観でした。

瞬間瞬間に無条件にひらいていく岡本太郎さんのほんとうのイキカタ。 - Restart with True Engine

 

岡本太郎は、調和や完成を疑い、
矛盾や衝突を含んだままの生命のエネルギーを肯定しました。

 

分かり合うことよりも、
「ズレたまま存在し続ける力」を生命として捉えていたように思います。

 

最後に重要なのが、
「余白」です。

 

再発後、私は「なぜ再発したのか」を何度も考えました。

 

ただ、構造摂理では、
意味づけしすぎること自体が構造を固めると考えます。

 

原因を一つに特定しすぎる
自分をラベリングしすぎる
次の正解を急いで決める

こうした動きは、余白を失わせます。

 

余白とは、
分からなさを残すこと
決めきらないこと

「未決の状態を許す」ことです。

 

岡本太郎が語った「完成を拒否する生命」は、
構造摂理の余白の感覚と深く重なります。

 

これまでに述べたような概念を、
構造摂理では「有」に対して「未」と呼びます。

 

有が正しいわけでもなく
未が正しいわけでもない。

ただ宇宙は、
未と有の往来が繰り返される動的ダイナミズムである。

 

だからこそ、
有によりすぎる(制度、役割、義務など)
未によりすぎる(不安症など)
ことを避けます。

 

未と有のバランスが崩れて、

「壊れる」からです。

 

未と有の往来が健全です。

 

距離・可逆・並存・余白は、独立した概念ではありません。

 

水が、
距離を取り
引き返し
争わず
形を決めきらないように、

これら四つは連動して構造を壊れにくくします。

 

構造摂理は、
治癒や安定を約束する思想ではありません。

 

揺れや不調が起きる前提に立っています。

 

そのうえで、
「致命的に壊れない構造をどう残すか」を考えます。

 

それは、水のように形を変え続けること。
岡本太郎が肯定した、未完成の生命を生きること。

 

私はまだこの新鮮な視点に出会ったばかりです、

 

正直、まだ消化不良感があります。

 

しかし、「分からないものは分からないままに動かし続けること」

 

これが、私が今理解している構造摂理です。

 

構造摂理は、
私にとって「答え」ではなく、
「壊れにくく試し続けるための視点」として、
静かに穏やかに私の中にインストールされ始めています。