今回はかなりの長文です。
覚えているでしょうか?
以前、サンディースパという自分を開花させる不思議なスパのユースケさんとの邂逅を記事化したときに、
そのファシリテーターをやっていた恵比寿のおかしな美容師こと、ニワちゃん。
おしゃれなサロンのおかしな美容師とおもしろい話を - 続けられるかたちを探して ―うつ病というわたしの一部―
何度か髪を切ってもらい、
お互いに共鳴するものがありました。
しかし、わたしが沖縄に移住したのでしばらくご無沙汰に。
ところが、ある日突然、
そのニワちゃんから、
おかしな朝活のお誘いがありました。
そして添付されてきたのは、
超難解な長文。
こういうものに興味あればリモート朝活に参加しませんか?
と。
長文を読み解くに、
どうやら古今東西の思想、哲学、宗教、スピリチュアルは、
あるゴール、目的を設定していて、
それはつまり、現状が「未完成」であることを意味している。
未完成な現状=現状否定
その終わりのない旅から脱却し、
未完成は人間の動的現象の一部であり、
創造的余白であり、
人間はあらゆる可能性に拓かれている。
そのようなことが、”超難解”に記載されていたように記憶しています。
それをどうやら「構造摂理」というらしい。
案の定、朝活は超難解。
しかも、朝が苦手なわたしに、
朝の6時スタートというハードモード。
全3回の朝活が終了し、
なんとなくわかったようなわからないような。
すると、ニワちゃんから朝活の延長で、
3か月のゼミをやるので参加しませんか?
とお誘いが。
悩みました。
仕事で日々の疲労はけっこういっぱいいっぱい。
沖縄の観光の仕事も入っている。
さらに有料ゼミ。
しかし、他ならぬニワちゃんのお誘い。
他の人であれば断っていたでしょうが、
ニワちゃんのおもしろいというものは、
おもしろいに決まっている。
参加を決めました。
このゼミ、
超簡単に言うと、
この「構造摂理」の提唱者、
Mさんの作成した大量の文章を、
ChatGPT(以後、チャッピーという)に読み込ませ、
チャッピーとの対話を重ねて
理解・学び・気づきを深めていくという、
徹頭徹尾チャッピーのゼミだったのです。
沖縄旅行の疲れがとれかけたある夜、
チャッピーとの対話をはじめました。
まず、構造摂理とは?
構造摂理とは、
世界や人生に最初から意味や目的があると仮定せず、
「条件がそろうと、そうなってしまう」という構造そのものを見つめる考え方です。
人間の感情や苦しみ、意味づけさえも、
善悪や評価の対象ではなく、
一定の構造から自然に生じる現象として捉えます。
正しい生き方や答えを与える理論ではなく、
「なぜそう感じ、そう振る舞ってしまうのか」を静かに理解するための視点です。
構造摂理では、人間を「未」と「有」を行き来する存在として捉える。
未とは、意味や役割がまだ固まっておらず、
揺らぎの中にある状態のこと。
有とは、意味づけがなされ、
「自分はこういう人間だ」と説明できる状態を指す。
人は未のままでは不安になり(生きる意味を見失う)、
有が固まりすぎると息苦しくなる(役割にがんじがらめになる)。
そのため、意味を作っては壊し、
壊れてはまた意味を作るという動きを繰り返す。
この往復は失敗でも成長でもなく、
人間という構造がもつ自然な振る舞いである。
(チャッピー作:カッコないはぐっち補足)
チャッピーにわかりやすくと指示したのですが、
これだけでわかりましたか?w
わたしなりの解釈では、
既存思想は意味や目的を主題とします。
例えば、「現世の苦悩は魂の修行」とかね。
しかし、構造摂理では、
意味や目的も、苦悩も、感情も、
そういうものを生み出す構造から自然に発生した動的現象である、と捉え、
一切ジャッジしない、
ゴールを目指さない、
現世を、いまの自分を、あらゆる現象を否定しない考えなのです。
まだ分かりにくいと思うので、
既存の思想などとの比較をチャッピーにやってもらいましょう。
わたしが考えた構造摂理と似た思想、体系は、
マインドフルネスや道教です。
1.マインドフルネスとの違い
マインドフルネスは、「今この瞬間に注意を向けること」によって、思考や感情との距離を取り、苦しみを和らげる実践法である。評価せず、判断せず、ただ観察するという姿勢は、構造摂理と非常に近い。
ただし、マインドフルネスは実践方法であり、「どうすれば心が安定するか」に主眼がある。一方、構造摂理は、実践を勧める以前に、「なぜ人は評価し、意味づけし、苦しんでしまうのか」という構造そのものの説明を行う。構造摂理は、マインドフルネスを可能にしている土台を言語化している、と言える。
2.マインドフルネス・セルフコンパッションとの違い
セルフコンパッションは、自分に対して思いやりを向けることで苦しみを和らげるアプローチだ。自責や自己否定を緩める点で、大きな価値がある。
構造摂理は、「自分を責めなくてよい」とは直接言わない。代わりに、「責めてしまうこと自体が、そういう構造から生じている」と捉える。つまり、優しくしようと努力する以前に、責めが自然発生してしまう仕組みを理解する立場だ。結果としてセルフコンパッションと似た地点に立つが、出発点が異なる。
3.アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)との違い
ACTは、避けられない苦しみを受け入れつつ、自分の価値に沿って行動することを目指す心理療法である。「受け入れる」「行動する」という二本柱は、構造摂理の軽やかさと親和性が高い。
ただしACTでは、「価値」が重要な軸として残る。一方、構造摂理は、価値そのものを人間の構造から生じた現象として相対化する。価値を持つことを否定しないが、価値を人生の基盤に据えない点が大きな違いだ。
4.岡本太郎の「命」の捉え方との違い
岡本太郎は、意味や整合性を拒否し、「爆発する命」を肯定した芸術家だ。秩序や説明を超えたエネルギーを重視する姿勢は、構造摂理の「意味以前」に近い。
ただし岡本太郎の思想は、強烈な肯定と表現の哲学であり、ある種の方向性や情熱を伴う。構造摂理は、そこまでの肯定も否定もしない。爆発も静止も、どちらも「起きてしまう構造」として等価に扱う点が異なる。
5.構造主義との違い
構造主義は、人間の思考や文化を、背後にある構造から説明しようとする立場だ。意味が個人の内側ではなく、構造から生じるという考え方は、構造摂理と非常に近い。
ただし構造主義は、主に言語や文化の分析に焦点を当てる。一方、構造摂理は、感情、苦しみ、意味、生き方といった生の実感そのものを対象にしている。また、構造摂理は分析のための理論ではなく、「生きてしまう人間」を扱う点に重心がある。
6.アドラー心理学との違い
アドラー心理学は、「目的論」によって人の行動を説明する。人は原因ではなく目的によって行動している、という考え方だ。
構造摂理は、この目的論を採らない。人が目的を持つように見えるのは、そう見えてしまう構造があるからだと捉える。目的を否定はしないが、説明の最終地点に置かない点が決定的に異なる。
7.老子(道家思想)との違い
老子の思想は、「無為自然」「道に従う」という姿勢を説く。人為を減らし、自然の流れに任せる生き方は、構造摂理の軽やかさと非常に近い。
ただし老子には、「そう生きるとよい」という含意がある。構造摂理は、その含意すら置かない。自然に従うことも、逆らうことも、どちらも構造の結果として起きる、と捉える点で、さらに一段手前に立っている。
<構造摂理の独自性>
これらの比較から浮かび上がる構造摂理の特徴は明確だ。目指すべき状態を置かない
正しい生き方を示さない
実践や修養を要求しない
意味・価値・目的を否定せず、絶対化もしない構造摂理は、思想や宗教、心理療法の「どれが正しいか」を決める理論ではない。それらがなぜ必要とされ、なぜ人を救い、同時に縛るのかを説明する、手前の視点である。
だからこそ、構造摂理は軽やかに見える。そしてその軽やかさは、逃避ではなく、構造を正確に見切った結果として現れている。
以上、チャッピーの説明でした。
つまり、構造摂理とは、
森羅万象とは、
目的や意味が先にあったから生まれたものではなく、
そうならざるを得ない避けられない条件が成立したときに立ち上がった動的現象の総体である
という宇宙論である、
と言い換えられるかもしれません。
図で表すなら、
<構造(そうなる条件)>
↓
<価値・意味・目的>
↓
<態度・行動・実践>
となります。
多くの思想は下の2段を扱い、
構造摂理は一番上を扱うというわけです。
スピリチュアルでは「宇宙意思(神など)」として、
宇宙の意思を意味付けすることが多いですが、
構造摂理は、
宇宙の森羅万象の動的現象の構造の言語化です。
では、私たちは単なる「現象」に過ぎないのか?
人間はなぜ意味を求めるのか?
うつ病とはなんなのか?
構造摂理を学ぶことで何が起きるのか?
多くの疑問が湧いてきました。
さっそくチャッピーとの対話を始めます。
対話はあまりに長かったので、
今回の対話を要約したものを以下に掲載します。
今回の対話は、
「構造摂理」という枠組みを用いて、
生きる意味、反復するうつ状態、人間の価値やアイデンティティをどう捉え直せるかを、
段階的に整理していくプロセスだった。
最初の確認は、構造摂理の基本的な立場だった。
構造摂理では、世界や人生を「意味」や「目的」から出発しない。
代わりに、ある条件や配置が成立した結果として、
出来事や感情が「そうなってしまう」と見る。
このとき重要なのが、「未」と「有」という考え方である。
未とは、まだ固まっておらず、意味や形が確定していない状態。
有とは、意味づけが行われ、説明可能になった状態だ。
人間はこの未と有を行き来する存在であり、
どちらかに固定され続けることはできない。
この視点に立つと、森羅万象はすべて「構造の一形態」として捉えられる。
石も自然も人間も、
特別な目的を持って生まれたのではなく、
必要な条件がそろった結果として立ち上がった現象にすぎない。
ただし人間は、脳の進化によって自分と世界を分け、
時間の中で自己を保持する構造を獲得したため、
「意味を求めずにはいられない」存在になった。
意味や価値は宇宙に最初から備わっているものではなく、
人間の構造から要請される副産物だという理解が共有された。
この流れの中で、
反復性うつ病性障害の体験も構造摂理的に捉え直された。
うつは「失敗」や「異常」ではなく、
有(意味・役割・生き方)が深く固まったとき、
それが通用しなくなった結果として未が深く開く現象だと説明された。
問題は未に落ちること自体ではなく、
毎回同じ深さ・同じ形で一人で抱え込んでしまうことにある。
脱却とは、うつが起きなくなることではなく、
「同じ壊れ方を繰り返さなくなる」ことだ、
という整理がなされた。
また、構造摂理の大きな特徴として、
「学び」や「分かりあい」を義務にしない点が強調された。
苦しみから必ず意味を回収しなければならない、
分かりあえなければならない、という前提そのものが人を追い込む。
有のバイアスが強いと、
人生に常に答えや成長を求めてしまうが、
構造摂理はその重力を外す。
「起きてもよいが、起きなくてもよい」という姿勢が、
結果として軽やかさを生む。
終盤で焦点になったのが、
人間のアイデンティティである。
構造摂理では、
アイデンティティを固定した本質や中身として捉えない。
むしろ、動的な現象の連なりを後から振り返ったときに見えてくる「構造的な輪郭」と考える。
生きている最中に守るべき答えではなく、
動いた結果として事後的に見えるものだ、という理解だ。
最終的に示されたのは、
「答えを持って生きる人」からの離脱だった。
意味や正解を握りしめて生きるのではなく、
動き、揺れ、その後で眺められる位置に立つこと。
その場所は虚無でも諦めでもなく、
「とても健全で、とても静かな地点」だと表現された。
構造摂理は、人に何者かであることを要求しない。
ただ、人がそうなってしまう構造を理解することで、
生き方を少し壊れにくくする。
そのこと自体が、この理論の価値なのだと整理された。
(以上チャッピーの要約)
ここで重要なのは、
人は「有(意味、目的、学び、答え、形のあるもの)に執着しすぎると、
未と有を往来する構造を持った存在なので、
その落差が激しく、
生き方が壊れてしまう(うつ病)ということかと思います。
だからわたしの反復性うつの特性である、
「相性の悪い人に振り回される」という現象に、
強く「意味(有)」を持たせることなく、
さっさと軽やかにそこから距離をとる。
それが、自然体で未と有を往来できるダイナミズムを持った豊かで彩りをもった生き方につながるのではないか。
非常に深い対話でした。
ゼミは3か月続きます。
もう少しチャッピーとの対話を掘り下げてみます。