続けられるかたちを探して  ―うつ病というわたしの一部―

何度も壊れて、そのたびに生き方を作り直してきました。 うつ病とともに働き、休み、 障害者として社会と向き合う今があります。 「頑張れば報われる」から降りた先で見えた、 無理をしない生き方のメモ。 ここは、立ち止まってもいい人のための場所です。

障害年金不支給の可能性

障害年金については、
これまでも何度か書いてきました。

 

準備を始めてから約8か月。
先日の6月末、
ようやく請求までこぎつけました。

 

過去分の請求については、
以前通院していた病院から
「ぐっちさんの体調では書けない」
と言われ、断念しています。

 

もっとも、
すべてのケースで
過去の病院の診断書が求められるわけではなく、
審査機関によって取扱いは異なります。

 

あとは結果を待つだけ。

 

そう思っていた矢先、
請求先から返戻がありました。

 

繰り返しになりますが、
障害年金の請求は、
発症日に属していた年金組合に行います。

 

返戻の内容は、
発症から1年6か月分のカルテ、
そして現在から2年分さかのぼったカルテ、
合計3年6か月分のカルテコピーを
提出するように、というものでした。

 

社労士に確認したところ、
カルテの提出を求められるケースと
そうでないケースがあり、
最近は求められることも増えているものの、
わたしのように
長期間分を求められるケースは
かなり珍しいとのことでした。

 

添付されていた
請求先の「障害年金取扱要領」を見ると、
「必要に応じて求めることができる」
と記載されています。

 

つまり、
すべての請求者に
一律で求められているわけではない、
ということです。

 

正直、
あとは審査を待つだけだと思っていたので、
かなりがっくりきました。

 

過去分の請求はしていない。
純粋に現在の診断に基づいて
審査されるものだと
思っていたからです。

 

それなのに、
なぜ過去3年6か月分もの
カルテが必要なのか。

 

もちろん、
それは無料ではありません。

 

それに、
いったい何のためなのか。

 

障害によって生活が立ち行かず、
金銭的にも困窮しているからこそ
障害年金を請求しているのに、
支給までの
長く、長く、重たいプロセス。

 

そして、
厳しい、厳しい審査。

 

このブログを
長く読んでくださっている方は
ご存じの通り、
わたしは13年以上通院を続けてきましたが、
体調が安定していた時期もあります。

 

だからこそ、
診断書の書き方ひとつで
結果が左右されてしまう。

 

この制度は、
本当に不可思議です。

 

今回の返戻は、
提出した診断書や、
発症後の生活状況を記載した
「生活状況等申立書」に
疑義があると判断され、
その確認のために
カルテの提出を求めてきたのだと
わたしは受け取りました。

 

カルテには、
その時々の体調が
淡々と記載されているはずです。

そうなると、
「体調が安定していた時期がある」
「カルテの方が症状が軽く見える」
といった理由で、
「障害年金に該当しない」
と判断される可能性が高まります。

 

正直、
この状況は
かなり厳しいと言わざるを得ません。

 

障害者雇用の給料だけで、
持続的に生活していくのは困難です。

 

そのための
障害年金だと思っていましたが、
ここまでの扱いを受けるとは、
思ってもいませんでした。

 

日本とは、
そういう国なのかもしれません。

 

この立場になって、
身に染みて感じています。

 

落ち始めると、
どこまでも落ちていく。

 

そして、
落ちていく人に、
とても冷たい。

 

日本国憲法には、
こう書かれています。

「すべて国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、
立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。」

 

障害者にも、
幸福を追求する権利は
あるのではないでしょうか。

 

そこに、
「最大の尊重」は
本当にあるのでしょうか。

 

いまの障害者雇用制度や
障害年金制度が、
幸福追求を
最大限尊重しているとは、
とても思えません。

 

むしろ、
「障害者は大人しく、
目立たず生きていろ」
という哲学のもとで
設計されているようにさえ感じます。

 

43歳、
手取り13万円で、
どうやって幸福を追求しろと
言うのでしょう。

 

わたしの楽しみである旅行に行き、
将来の不安に備えて
貯金をしろと?

 

この状況でも、
障害者の中では、
正社員であるわたしは
まだ「マシ」な側です。

 

そして、
こうして追い込まれている障害者は、
決して少なくないはずです。

 

ただ、
仮に、
人生には
「自分に必要なことだけが起きる」
と考えるならば、

これは、
「お金ではない幸せを見つけなさい」
というメッセージなのかもしれません。

 

それは、
とてつもなく
重くて、
とてつもなく
大切な問いです。

 

障害者になって強く思うのは、
「やりがい」
「生きがい」
「幸せ」とは何か、
という問いが、

 

健常者よりも
はるかに鋭く、
突きつけられるということです。

 

いまは、
まだ何も見えていません。

 

けれど、
そのヒントは、
実学よりも、
宗教者の言葉の中に
あるような気がしています。

 

わたしの、
誰もが居心地よくいられる場所を作りたい。
さまざまな人が共存できる、
多様性のある世界を作りたい。

 

その大きな目標には、
もしかしたら、
お金は関係してこないのかもしれません。

 

いまのわたしに、
いったい何ができるのか。

 

周りとの比較ではなく。

 

わたしは、
わたしの人生を
生きていくのだ。