こんにちは!
人生を自然で豊かにするヒントを紹介していくブログ「ナチュラルなイキカタ」のぐっちです!
古今東西の知恵が、現代の僕たちにつながるシリーズ。
・・・実はシリーズだったという。笑
今回は、あのアダム・スミスです!
世界史を勉強したことがある人なら、一度は耳にしたことがある名前、アダム・スミス。
1700年代のイギリスの経済学者です。
孫子ほど昔の方ではないですが、それでも250年くらい昔の方。
僕は、「昔の人の考えは古臭い」
当然、「当時の考え方は現代の僕たちはとっくに凌駕している」と当たり前のように思っていました。
ところが、
ヨガ哲学、仏教思想、老荘思想などを知る中で、「幸せ」や「豊かさ」は、時代を超える普遍性だと思うように。
今回は、「アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界」という本を読み、普遍的な「幸せ」や「豊かさ」が、東洋思想だけでなく、西洋思想にも脈々と流れていることを知ったという話です。
アダム・スミスは、「資本主義の父」として知られ、「神の見えざる手」というキラーワードは、今も株の世界などで頻繁に使われてます。
以前は規制緩和によって市場経済が拡大すれば、自然と社会秩序は保たれると考える際限ない金儲けを全肯定した人だと思われてきました。
ですが、最新の研究では、アダムスミスの2冊の主著(というか生涯に2冊しか出していない)のうち「道徳感情論」で
経済の基となる人間の本性は
共感
であると書いていることに注目が集まっています。(本の中では「同感」)
共感という本性が基礎にあるからこそ、完全に価値観の一致をみなくても、自然的にある程度秩序が維持されていくと考えたんです。
さらに!最も有名な著書「国富論」においても、
富は人と人をつなげるもの
と書いています。
たとえ同じ価値観を共有していなかったとしても、富の交換によって別の文化とか地域、民族とつながることができるという意味で、アダムスミスは経済成長を主張したのであって、「単に経済が拡大すれば人間の幸福感が増す」と考えていたわけでなありません。
アダムスミスは生涯に出版したたた2冊の主著を何度も改訂していますが、死の直前に「道徳感情論」に追記したと言われる文章は、現代の僕たちでも十分はっとする内容ですから、長いけど紹介します。
人間本性の仕組みからいって、苦悩は決して永遠のものではありえない。
もし人が苦悩の発作に耐えて生き続けるならば、彼はまもなく、何の努力もなしに通常の平静さを享受するようになる。
木の義足をつけた人は、疑いもなく苦しむし、自分が生涯、非常に大きな不便を被り続けなければならないことを予見する。
しかしながら、彼はまもなく、その不便を公平な観察者(自分をもっともよく知る自分の内面)たちがそれを見るのとまったく同じように見るようになる。
(中略)
全ての人は、永続的な境遇となるものに対して、遅かれ早かれ、確実に自分を適応させる。
このことから、われわれは、次のように考えてよいであろう。
(中略)
ひとつの永続的境遇と他の永続的境遇との間には、真の幸福にとっては本質的な違いは何もないということである。
もし、そこに何かの違いがあるとしても、その違いは、永続的境遇のうちのあるものを単純に選択させるにすぎない違いであり、それを熱心に追い求めさせるような違いではない。
また、その違いは、永続的境遇のうちの他のものを、回避するのがふさわしいものとして、単純に放棄させるに過ぎない違いであり、それらを必死に忌避させるような違いではない。
幸福は平静と享楽にある。
平静なしには享楽はありえないし、完全な平静があるところでは、どんなものごとでも、ほとんどの場合、それを楽しむことができる。
あらゆる永続的境遇において、それを変える見込みがない場合、人間の心は、長時間かかるにせよ、短時間しかかからないにせよ、自然で普通の平静な状態に戻る。
人間の心は、繁栄の中にあっては、一定の時間の後に平静な状態に落ち着くし、逆境にあっても、一定の時間の後に平静な状態に回復する。
(中略)
人間生活の不幸と混乱の大きな原因は、ひとつの永続的境遇と他の永続的境遇の違いを過大評価することから生じるように思われる。
貪欲は貧困と富裕の違いを、野心は私的な地位と公的な地位の違いを、虚栄は無名と後半な名声の違いを過大評価する。
それらの過度な情念のうちどれかの影響下にある人は、個人の状態として不幸であるだけでなく、しばしば、彼がそのように愚かにも驚嘆する境遇に到達するために社会の平和を乱そうとする。
彼は、ほんの少しでも周りを観察すれば、健全な心の持ち主が、人間生活の通常の境遇のすべてにおいて、等しく冷静で、等しく快活で、等しく満足していることを確信したはずである。
たしかに、それらの境遇の内のあるものは他のものよりも好まれるに値するかもしれない。
しかし、それらのうちのどれも、慎慮または正義の諸規則の蹂躙にわれわれを駆り立てる情熱的な欲望を持って追及されるに値するものではない。
あるいは、自分の愚行を思い出すことからくる恥辱によってであれ、自分の不正に対する恐怖からくる悔恨によってであれ、将来の心の平静を乱すようにわれわれを駆り立てる情熱的な欲望をもって追及されるに値するものでもない。
慎慮が指図しないのに、そして正義が許容しないのに、自分の境遇を変えようと企てる人は、あらゆる危険な賭けの中でも最も引き合わない賭けをするのである。
その人は、ほとんど何も得られないのに、あらゆるものを賭けるのである。
エピルスの王の寵臣が王に言ったことは、人間生活の普通の境遇にあるすべての人びとにあてはまるだろう。
王は、その寵臣に対して、自分が行おうと企てていたすべての征服を順序だてて話した。
王が最後の征服計画について話し終えた時、寵臣は言った。
「ところで、そのあと陛下は何をなさいますか」。
王は言った。
「それから私がしたいと思うのは、私の友人たちとともに楽しみ、一本の酒で楽しく語り合うということだ」。
寵臣は尋ねた。
「陛下が今そうなさることを、何が妨げているのでしょうか」。
空想の中の最も輝かしく最も高貴な境遇において、われわれが真の幸福を引き出しうると期待する快楽は、現実のつつましい境遇において、われわれがいつも手近にもっていて自由になる快楽と、ほとんどの場合、同じなのである。
虚栄と優越感というつまらぬ快楽を除けば、最も高い地位が提供するあらゆる快楽は、最もつつましい地位においてさえ、人身の自由さえあれば、見つけることができるものである。
そして虚栄と優越感の快楽は、真実で満足のゆく享楽の原理であり基礎である完全な平静さと、めったに両立しない。
真実で満足のゆく快楽は、われわれが憧れる輝かしい境遇においては、われわれが熱心に捨て去ろうとする現実のつつましい境遇においてと同じ確実さをもって獲得されるとは限らないのである。
歴史の記録を検討し、あなた自身の経験の範囲内で何が起こったかを思い出してみるがいい。
そして、あなたが読んだか聞いたことがある、あるいは覚えている、公私いずれかの生活で非常に不幸な結末を迎えた人びとの行動が、いかなるものであったかを注意深く考察するといい。
そうすると、あなたは、圧倒的大部分の人びとの不幸は、いつ彼らがよい状態にあったのか、いつ彼らが静坐し満足しているべきであったかを、彼らが知らなかったことから生じたものだということを知るだろう。
(「道徳感情論」三部三章)
難解な言い回しはありますが、これが約250年前にアダム・スミスが考えた幸福観です。
実に現代に通じると思いませんか?
特にエピルス王と寵臣のやりとりには僕はゾクゾクします。
スミスが書くように、僕たちが憧れる状況、こうなったらいいなという望みがかなった状況と、僕たちの実際にいまここの状況の幸福は、ほとんどの場合同じなのです。
僕自身が他人が憧れる状況になったことがないので想像ですが。笑
でも、外形的な状況だけ見たら、僕もある種憧れられる状況にあるかもしれません。
苦悩があるとき、その苦悩をなんとかしようと考えを巡らせていると逆に苦悩が強化されるのに対して、
「いやいや、この苦悩も今までの経験から言えばこのくらいでなくなっていくだろう」
と手放してしまうと、自然な(そして最短の)スピードで消えていきます。
これはまさに、シュリシュリ・ラヴィ・シャンカールのヨガ哲学と通じます。
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他人との比較で感じる相対的満足ではなく、
この心の状態でみつけることができる「真実で満足のゆく快楽」こそが「幸せ」なのです。
「幸せは僕の外側からもたらされる、それを得ないと幸せにはなれない」
と僕の外側にあるものを求めることから、苦しみははじまります。
今の僕には「幸せ」がないのですから、逆説的に今の僕は不幸です。
だから、「将来の心の平静を乱すようにわれわれを駆り立てる情熱的な欲望をもって追及」してきます。
他人よりより良い資産、容姿、ステータスを。
「成長とは、不完全な自分が完全になる過程だ」
と完全を求めるところから、苦しみははじまります。
完全な人間はいないし、完全になれない自分を否定し、傷つけ続けるからです。
僕が幸せになることを妨げているものは何か?
その妨げが無くなったとしたら、どうなるのか?
それを知ることが「真実で満足のゆく快楽」を得る道だと、アダム・スミスは教えてくれているのです。
ぐっち