明日死ぬとしたら、今日一日をどう生きます??
行きたくもない職場の飲み会に、義理で参加しますか?
健康のためにと、おいしくないなーと思いながら食べますか?
会いたくもない「友達」に、昔からの付き合いだからと会います?
たぶんどれもやらない。
この瞬間に起こることの一つひとつを、愛おしく味わうのでは?
その感覚。
その感覚がマインドフルネス!!
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ただ漫然と「今日」=「永遠に続く日常の一部」だと思っていたら、今この瞬間の感覚にフォーカスすることは永遠にありません。
だって、ただの一番の瞬間瞬間の価値はぜんぜんないんだから。
ぼくは、
「いつか」の楽しさではなく、「今」の楽しさの先に「本当」の楽しさが続く
という武田双雲さんの言葉に背中を押されて、今の感覚で、今を生きてみることにしました。
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ただし!
この感覚で一つだけ大切なことがあるんです。
それ抜きに今の感覚にフォーカスしても、明日死ぬという不安に押しつぶされてしまう。
その大切なことってなに?
マインドフルに、感謝に溢れて、愛で生きるために大切なことは??
そのヒントをくれる本と出会いました。
本との出会いも縁ですよね〜
武田双雲さんの「ポジティブの教科書」は間違いなくぼくの人生を変えたし。
今の楽しさにフォーカスする想いを、6月に転院したクリニックでも話したところ、主治医の原井先生に紹介されたのが、今日紹介する本、「死すべき定め」でした。
この本の著者のガワンデさんは、現役の甲状腺外科医で、雑誌「ニューヨーカー」のライターでもあります。
全体としては、アメリカの高齢者医療、終末期医療のルポルタージュという体裁をとっていますが、この本が問うのは、「今をどう生きるか」という生の本質的なあり方です。
死から逃げず、死をまっすぐに観ることであぶり出されてくる本当の生。
生も死も、別個に点として存在しているのではなく、それぞれ流れの一部分だから、生を考えることは死を考えることで、死を考えることは生を考えること。
死から独立した生はなく、生から独立した死もない。
そうこの本から教えられました。
最近の自己啓発スピリチュアルブームともシンクロする内容ですが、この本にはスピリチュアルな要素は一切出てきません。
あくまで医科学の視点から、客観的に、根拠を持って、実際の死を目の当たりにしながら、生の意味という哲学的な命題ににじり寄っていく説得力は圧巻!!!
後書きには、こう書かれています。
『死すべき定め』は生物としての限界、つまり遺伝子と細胞と肉と骨による限界に対処する葛藤についての本である。
医科学は驚くべき能力でこの限界を先に延ばし、この能力がもつ可能性を信じて私は医師になった。
しかし、医学の能力は有限であり、これからも常にそうだという事実を私も含めた医療者が見過ごしてしまったときに生じる害を、私は何度も何度も見てきた。
何が医療者の仕事なのかについて私たちは誤った認識をずっとひきずっている。
自分たちの仕事は健康と寿命を増進することだと私たちは考えている。
しかし、本当はもっと大きなことだ。
人が幸福でいられるようにすることだ。
そして、幸福でいるとは人が生きたいと望む理由である。
本当にそうだと思います。
幸福でいること。
これが「生の意味」
これを見失うと、自分アンテナが錆びまする。
実は幸せにつながらない選択をしてるにもかかわらず、なぜ幸せにならないのか分からない迷子状態がまさにそれ。
幸福でいるために必要なことは、人によって違います、
ただ、ガワンデさんが多くの死を目の当たりにして気付いた共通点が、「死を受け入れること」だった。
生には必ず終わりがあるという、生の有限性を理解することだった。
ガワンデさんが目にしたのは、現代医学の在り方としてはスタンダードなはずの、生物としての限界を先に延ばそうとする医学(過剰な延命治療)が、人を幸福から遠ざけていくさまでした。
むしろ、死を受け入れ、今何ができるか、何がしたいかと今を生きたとき、幸福な生が訪れていたというのです。
ぼくたちは、長生きがしたいと望むことで長生きに近づくと、自然に思っています。
ところが、「人は長生きを諦めた時だけ、長生きを許される」という衝撃の逆説が、ガワンデさんが目の当たりにした現実には起きていました。
この現実が教えることは、とても深い。
今を犠牲にして未来の時間を稼ぐのではなく、今日を最善にすることを目指して生きることがもたらす結果を私たちは目の当たりにした。
スタンフォード大の心理学者であるローラ・カーステンセンによる創造的かつ重要な研究(中略)たとえ加齢が生活の幅を狭くしたとしても、全体から見れば時が経つにつれて人は生きることに対してより感情に満足し、落ち着いた経験をするようになるのである。
視点(パースペクティブ)――現世における持ち時間には限りがあるという個人的な知覚――による影響だけを受けていると考えたら?
人が自分の時間をどう使おうとするかは、自分に与えられた時間がどのくらいあると認識するかによって影響を受けるだろう。
若く、健康な時には、自分は永遠に生きられるように信じる。
自分の能力をわずかでも失うことなど心配もしない。
そして快楽を後回しにする方を進んで選ぶ。
しかし、水平線が縮んでくると――自分の先の未来は有限であり、不安定だとわかったとき――人は今、現在ここにあるもの、日々の喜びと親しい人たちを大切にする方へ方向転換する。
カーステンセンは自分の仮説に「社会情緒的選択理論」といういかめしい名前を付けた。
ぼくが経験した病、うつ病にもまったく同じことが言えました。
人は、うつ病の治療を諦めた時だけ、うつ病の治癒を許される。
うつ病の治療を諦めた時、はじめて自分の時間を自分の幸福のためにどう使うか、という視点を得られるからです。
それまでは、「うつ病と戦うこと」に自分の時間を使ってしまいますが、それは自分が本当に望む時間の使い方かどうか・・・。
ポイントはここ。
医療は当然に長生きを是として、治療を押し進めますが、果たして「長生きすること」が本当の自分の望みかどうか・・・
幸せは、「視点」にだけ影響を受けているとしたら。
ぼくたちはどの視点で、今を生きているか。
武田双雲さんが「ポジティブの教科書」でおっしゃっていた、「とらえ方を変えるだけで幸せになる」は、医学的にも証明されていたわけです。
すご。
本書の後半で描かれるのは、ガワンデさんの父の死。
ガワンデさんの父親は、ガンにより苦しみや出来ないことが増えていく事実にもだえ、葛藤しながら死すべき定めと向き合っていきます。
一生かけてきた自分のアイデンティティが崩れ去ろうとするとき、父はそれにしがみつくのではなく、いつのまにかアイデンティティを再定義し直したのだった。
父は砂浜に書かれた線を動かした。
これは自律を保つことを意味している―人生の状況をコントロールすることは不可能であっても、自分の人生の著者であるならば、状況にどう向き合うかをコントロールしていることになる。
自分の人生の著者として変化を受け入れ、アイデンティティを再定義し、状況にどう向き合うかをコントロールしている。
これこそ、「生き生き」という状態なんだ!
ぼくたちは常に変化します。
色即是空 空即是色
未来のために今を犠牲にしている状態を、「生き生き」とは言わない。
自分の時間の有限性を理解すれば、未来のために今を犠牲にすることはできません。
もったいないもんね。
ガワンデさんは、「自分の時間の有限性を理解すること」を「天の恵み」とまで言っています。
宇宙の意味は分からない。(だから魅力もあるけど)
ただ一つの真実は、死は全ての人に訪れる。
それだけは、宇宙の法則。
この真実に則って行動する勇気。
全てに人に訪れる死を、恐れて生きるのか、今の望みを生きるのか。
決めるのは、他の誰でもない。
自分自身です。
人の死をコントロールできると示唆する見方に対して私は懐疑的である。
今までは本当に死をコントロールした者はいない。
人の生の行方を究極的に決定するのは物理学と生物学、偶然である。
しかし、私たちにまったく希望がないというわけではないことも忘れてはならない。
勇気とは、双方の現実に向き合う強さである。
時が経つにつれて人生の幅は狭められていくが、それでも自ら行動し、自分のストーリーを紡ぎ出すスペースは残されている。
このことを理解できれば、いくつかはっきりした結論を導き出せる。
人が自分のストーリーを紡ぐ機会は意味ある人生を続けるために不可欠である。
ぼくは、うつ病であるかないかに関わらず、意味ある人生を続けたいと願っています。
これは、他の誰でもない、ぼくの願いです。
だから、いついかなるときも、「自ら行動し、自分のストーリーを紡ぎ出すスペース」を観ていきたい。
今を生きるために。
ぐつち