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ぐつちのジブン史

仕事以外なーんのしがらみもなくなりました。

令和1年11月11日に、11回目の引っ越しもしました。

 

登場人物と舞台を変えただけで、ずっと同じエピソードを繰り返してきたぐつち劇場が、37年かけて新章に突入しそう。

 

ただ、当たり前だけどまだ新居にも慣れないし、引越し準備で最近プライベートで人に会うことも少なく、正直めちゃめちゃ感傷的になりました。

 

夢の中にいるような気がする時もある。

ウソのような気がする時もある。

甘さだけが味ではないように、これも味わいといえば味わい。

 

「味」に甘さしかなかったら、食べ物を食べることはここまで楽しくはない。

「感情」に「楽しさ」しかない世界は、きっとそれほどおもしろくない。

「悲しさ」「不安」「寂しさ」「悩む」「迷う」は否定する対象じゃない。

「苦み」「辛味」「渋み」を否定する必要がないのと同じように。

 

これまでも、こういうムードになったことは何回もあったんですけどね。

それも、何度も乗り越えてきたんだぼくは。

 

何がどうなっても、ぼくはぼくだった。

別に勝ち続けてこなかったけど。笑

感傷的になると、元カノメールに引きずられて、どうにもそのことを忘れます。

関連記事:Awakener Project「元カノからのメール」 - ナチュラルなイキカタ

 

そこで、同じエピソードを繰り返していることに気づけたTさんとのジブン史ワークを振り返って、ぐつち新章の方向を再確認してみることに。

関連記事:Awakener Project「37話目のぐっち劇場」 - ナチュラルなイキカタ

 

◯0歳〜5歳

1982年3月24日、新聞配達員の父と、保育士の母の三男として誕生。

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4歳上と1歳上に兄。

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母の勤める保育園に兄弟で通った。

3月生まれで同級生に比べて体力がなく、一つ下の女の子とよく遊んでいた。

運動会で一人だけ棒登りが出来ず恥ずかしかった。

同級生と遊ぶのは好きではなかった。

親戚から「嵐」と言われるくらいワチャワチャした子供だった。

よく物を壊したらしい。

明るく、人を笑わせることの好きな、お調子者の子供だった。

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家はゴキブリがよく出る、物だらけの家だった。

江戸時代の髪結い時代から床屋を営んでいたが、祖父の代で廃業し、設備だけは残っていた。

昔はDVが激しかったという祖父も、認知症になり施設に入っており、ほどなく亡くなり、一度顔を見に行った記憶しかない。

 

◯6歳(小学1年生)

通っていた保育園から自分の地域の小学校に進学したのはぼく一人だった。

母の勤める保育園は学校的な教育を一切やらない方針だったので、ひらがなも書けず、馴染めるか不安だった。

優しい先生で、ほどなく馴染んだ気がする。

新しい友達もできた。

靴下を履くという習慣を知らず、足の臭いを学校でバカにされて傷ついた。

弟誕生。

 

◯7・8歳(小学2・3年生)

クラスの女の子にはじめてバレンタインをもらってうれしかった。

連絡帳というものを知らず、宿題を三回連続で忘れたら担任の先生にキレられた。

そんなにキレることだろうか、と思った。

キレ方も子供に対して諭すというよりも、感情の暴発で、出来事に対してあまりの怒りの大きさにただショックだった。

担任は嫌いだったが、クラスでは絶対権力者なので、迎合しなければならなず嫌だった。

兄妹でゲームボーイを買った。

3人で使うため、なかなか自分の番がこなかった。

自分はいつもないがしろにされていると感じていた。

学校から帰ると次兄と学童へ。

夏休みも学童で過ごしていた。

次兄やその友達と遊ぶことが多かった気がする。

極端に朝早く起きて、NHK教育の番組を見る一人の時間が何よりの楽しみだった気がする。

「ひとりでできるもん」とか「おーいはにまるくん」とか。

弟がかわいくて仕方なく、ちょっかいをだしていると、やりすぎて泣かせてしまい、親や兄に怒られてすねた。

かわいいからイタズラしたいという気持ちが、否定的に捉えられることに対して、感情の落としどころ分からず、黙って自分の殻に閉じこもることしかできなかった。

ぼくの気持ちより、弟の機嫌が優先されることが悲しかった。

自分の気持ちの価値は、低いのだと学んでいった。

だからか、よくすねる子供だった。

絵本でカマドでパンを焼く様子を読んで、自分もやりたかったが、家にカマドはなく、「家にカマドがあったらなー」といつまでも言ってすねていた。

カマドがないから実現できないと一方的に否定されただけで、自分の望みは叶わないのだと学んだ。

夏祭りで、動物の乗り物に乗っていて、友達にこっちと呼ばれてそちらに行くと、段差があり乗り物が壊れた。

修理に100万くらいかかると友達たちに脅されて、不安で仕方なかったが、親がなんとか処理したようだった。

自分の落ち度は一切ないと思ったが、なぜか全責任がぼくにあるように扱わることが許せなかった。

別に誰かが悪いわけではなく、ヒューマンエラーレベルのささいな事故だと思ったが、それが異常な大事になるのことにすごく違和感があった。

「おれは悪くないだろー。たまたまだろー」と叫びたかった(が誰にも言わなかった)。

結局、自分の行動はロクな結果を生まないと強く思った。

 

◯8歳(小学4年生)

夕方のアニメ番組が何よりの楽しみ。そこだけは自分の世界だった。

一話でも一瞬でも見逃すのが許せなかった。自分の世界が侵害された気がした。

相撲が延長すると見られないので嫌だった。

アニメが始まるまでは、近所の本屋でマンガを立ち読みしてた。ここも、自分の世界だった。

当時の本屋は立ち読みし放題だったので、かなりの時間を本屋で過ごしていた。

ヒステリー系の女性担任で、友達のEが「うるせんだよ暴力ババア!」とキレた。

担任も感情的だった。

先生にはろくな人間がいないと思うようになっていった。

長兄は運動も勉強もでき、こだわりが強く、怖かった。

自分の考え通りにいくことに執着があった。

そのこだわりに付き合わされるのが嫌だった。

自分の思い通りにならないと、機嫌を損ねた。

とにかく長兄の機嫌を損ねないのが、家の中の最優先ルールだった気がする。

兄弟でお金を出し合って、メガドライブを買った。

3人でシェアしているため、なかなか自分の番にならず。

ゲームが下手で、兄に負けてばかりで悔しかった。

自分は何をやってもダメだと思った。

Eと遊ぶことがほとんどで、そこに誰かがプラスアルファされるという感じだった。

2人でマンガのマネや、独自の設定の世界を構築するのが好きだった。

 

◯9歳(小学5年生)

担任は若い先生で好きだった。

アニメとマンガとゲームの日々。

友達は一貫してH。

ほかにD、Yくん。

Dは今思えば自分勝手な行動をするやつだった。

移動教室の時に、休み時間が終わりそうになっても冗談でぼくを押さえて離さず、遅刻するので振り払うと、Dのメガネにあたって、メガネが壊れ、Dが泣き出し、周りもメガネを破壊したことに修理代はいくらだとか責めてきて、すごく嫌な思いをした。

そもそも、意味もなく移動させないように抑えつけていたDの行動に対しては誰も何も言わない。

メガネが壊れたのもたまたまであって、自分に悪意があったわけではない。

それでも、子供は起きた出来事だけを見て集中砲火してくる。

「そもそもお前がさっさと離せばよかっただろうが!原因を作ったのはおまえ自身だろうがバカかお前は!」と声を大にして怒鳴りたいくらいだった(当時は言葉にできず)が、子供の世界では、泣いているDが善だった。

もどかしく悔しかった。

悲しんでいる相手を前にして、何も言えなかった。

世の中は理不尽だと思った。

兄弟でお金を出し合ってメガCDという高いゲーム機を買った。

友達のYくんが少しカンパしてくれて、買えたのがうれしくて「カンパが購入の決め手になった」というような壁新聞を作って貼っていたら、長兄に別にそれで買ったわけではないと怒られた。

はしゃいだ気分は急激にしぼみ、はしゃいだりうれしさで行動すると、人を嫌な思いにさせるのだと思った。

Yくんは一時期とても仲が良かったが、自慢話ばかり聞かされるのに愛想がつき、「親友じゃなくて友達になろう」と伝えたところ、かなりのショックを受けて担任から怒られた。

人付き合うのはめんどくさいと思うようになった。

この頃に家の前の道路拡張に伴って、家を奥に新築されて引っ越した。

 

◯11歳(小学6年生)

誰もいない図書室で遊んだり、学校の見えないところで、独特の設定を作って遊んだりしていた。

できるだけ自分の世界に閉じこもっていたかった。

足が速く成績もよかったので、学校で一人だけ選ばれる健康優良児に選ばれた。

相変わらず、マンガとアニメとゲーム。

確かこの頃、地域のカルタ大会があり、なかなか自分の番がこないのでHと外で遊んでいたところ、自分の順番が来たことがわからず、遅刻して、大会役員をやっていた父から後にも先にもないくらい一番怒られた。

納得がいかず、Hとプチ家出したが、夕方には帰った。

自分がしたミスと、父の怒りのボルテージの大きさが、どうしても不釣り合いだと納得がいかなかった。

何もしないダラダラとした待ち時間を作るのだったら、最初から時間を決めて効率的にやったらいい。

問題の本質はそこだと思っていた。

怒られたことに全然納得いってなかった。

そもそも自分の意思で参加しているわけでもない地域のカルタ大会程度のことだった。

しょせん、その程度の話のはずだった。

父親の怒りの大きさに飲み込まれ何も言えない自分が、やはりもどかしかった。

怒りや悲しみを前にすると、何も言えなくなってしまうのだった。

物への執着が激しく自分の大切にしている物を誰かに触られるのも嫌だった。

多分、大切にしている物は自分の世界そのもので、自分の世界に踏み込まれることにすごく抵抗があった。

ゲームの兄弟順番待ちを避けるためだったか、朝3時くらいに起きてゲームをするのが習慣だった。

学校の成績はよかった。

この頃には生徒一人ひとりがキャラ立ちを始めており、不良グループに目を付けられないようにしていた。

親の知り合いの先生から親が頼まれ(応募が少なかった?)、宿題でもないポスターを描くことになり、仕方なく描いたがうまく描けず、結局親が描いて提出した。

なんで宿題でもない描きたくもないポスターを描かなければいけなかったのかも納得できないし、時間をかけて描いた結果も意味のないものになって、いったい自分はなんのためにこんな思いをしなければいけないのだろうかと思った。

世の中は納得できないことだらけだった。

 

◯12歳(中学1年生)

Hと同じ中学に進学。

球技が苦手だったこともあり、1年先輩に次兄のいる陸上部に入部。

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長兄も陸上部だったので、顧問の先生は、3人とも担当したことになる。

塾には一切っていなかったので、英語がわけわからず戸惑った。

入学して間もなく、小学校と同じように教室の後ろではしゃいでいると、学年一のヤンキーに突然後ろから蹴られ、「調子に乗ってんじゃねー」と絡まれ、小学校との違いを知った。

しばらく立ち直れないくらいショックだった。

相手の怒りの理由が、どう考えても分からなかった。

なんでキレられたのか?自分の何が相手を不愉快にさせたのか?何がいけなかったのか?

延々と考えた。

恐怖が勝っていたが、本当は、「テメーには関係ねーだろ、調子に乗ってるとなんでテメーに蹴られなきゃいけないんだよ、暴力にしか訴えられねーのかバカかてめー」と言いたかったかもしれない。

しかし、自分がはしゃいでいると、誰かに目を付けられるて怒りを買う、人をイラつかせると強く刷り込まれた。

「気持ちがはじけること、はしゃぐこと=ロクでもない結果」という公式が成立した。

いかにヤンキーに目をつけられないかが生きる上での大テーマになった。

この事件が、一つの転換点になった。

以後、他人の目線を一番意識して過ごすようになった。

ヤンキーが嫌いで仕方ないのに、ヤンキーのことを一番考えて生きなければいけなくなった。

Dなどの別の中学に進学した友達との縁は切れた。

確かこの頃、弟の友達が、ぼくと遊びたいということで、弟とその友達の面倒をみた。

遊んでいて、少し離れた場所に移動するので、その子を自転車の後ろに乗せたところ、その子が車輪に足を挟んで、かかとの部分がえぐれる大怪我をした。

すぐに救急車を呼んだが、やっぱり自分が行動するとロクな結果にならないと後悔した。

小学校の時には理科が好きだったが、理科の教科担任は横暴な先生で、まともに授業をやらない割りには、テストの点数が悪いと怒るし、突然焼き芋をやると言い出して、焼き芋の準備を忘れると激怒した。

授業中も、生徒イジリで笑いをとろうとしていた。

この先生の影響で理科が嫌いになった。

「なんでこんなクズみたいな奴が先生をやってんだ。自分は何も教えていないくせに、自分のことは棚に上げて、先生という立場だけで偉そうにして、尊敬するところが一つもない。まず理科でワクワクするような授業やってから物を言ってみろバカが」と思っていた。

しかし、学校の評価は一方的なので、表と裏を使い分けて接しており、そういう自分も嫌だった。

 

◯13歳(中学2年生)

H、Nと一緒に遊ぶことが多かった。

休みの日はゲーム。

球技はダメだが、足が速いのでなんとか学校でのポジション確立。

男4人兄弟で女子との接し方が分からず、女子の目線を気にしながら、でも女子としゃべらない硬派なキャラクターを演じていた。

パンクしたままの自転車に乗っていたら、チューブがダメになって修理費が多くかかったらしく、その件で次兄から「犯人」と言われたり、くだらないことで必要以上に責められることが続き、たまったうっぷんが爆発。

なんでくだらないことをネチネチ言うのかいつもイライラしていた。

些細な事でもなにかやるたびに否定的に言われるので、自分の行動を逐一気にするようになった。

「何かを言うにしても、言い方があるだろう、何かを直すなら直せとはっきりいえばいいだけだろうが」と言いたかった。

それでも次兄には直接言えず、2階でベッドを振り回していたところ、兄たちが気付いて、泣きながらうっぷんを話した。

兄がどう反応していたかは忘れた。

夏休み初日に父親が近所の駐車場でガス自殺。

警察からかかってきた電話をぼくがとった。

あとから思えば、この年の夏に予定してた初の沖縄旅行にいけなくなりそうだと言っていたことや、大学受験でセンシティブになっていた長兄に、文句を言いながら巨人戦を見ることを責められ、電気もつけない寝室で一人巨人戦を見ているなど、様子がおかしかった。

後から知ったのは、長距離トラックの運転の仕事でベンツにぶつけてしまい、会社からパワハラ的な研修を受けさせられ、そこから様子がおかしくなったとのことだった。

突然こと過ぎて、現実感がなかった。

 

◯14歳(中学3年生)

陸上部の部長になった。

部活紹介の説明会でぼくの話がよかったらしく、例年にない数の新入部員入部。

県大会の帰り道、他校のヤンキーがずっとガンをつけてきて、ヤバさを感じて電車をずらした。

後から聞いたら、「あいつムカつくでしょ」と言ってたらしく、なぜムカつかれたのかわからず、自分は不愉快な存在という思いを強くした。

なんでいつも絡まれるんだろうか、目を付けられるんだろうかと嫌で仕方なかった。

自分の存在自体が人を不愉快にさせるんだろうかと、鎧をまとうようになった。

夏に部活が終わると、下校時には友達としばらくしゃべってから帰った。

なんの話をしていたかは忘れたが、すごく楽しかった気がする。時間を忘れてしゃべった。

学年一かわいいと思ってた気になっていたNさんから手紙をもらい、付き合うようになってかなりうれしかった。

毎日交換日記。

休みの日はゲーム。

限られたお小遣いで買う物への執着が激しく、誰かが勝手に自分のマンガを読んだりゲームをやったり、並べ方をバラバラにするのが許せなかった。

世界名作劇場の「七つの海のティコ」の影響で、船長になって世界を旅したいと思っていた。

世界名作劇場が好きだった。「ロミオの青い空」が特に好きだった。

学校の成績は良かったが、テスト勉強の計画を立ててはテレビやゲームで計画倒れに終わることを繰り返した。

受験が嫌で、深く考えることなく進学校ではなく近所の高校に推薦で合格。

長兄が予備校に通うため家をでた。

 

◯15歳(高校1年生)

近所の男子校に進学。

新しい環境に馴染み自分のポジションを確立するため、何かのキャラづけをしなければと必死だったが、迷走。

一瞬オカマキャラみたいにもなって嫌だった。

学校の勉強への興味はほとんどなかったが、他に何をしていいのかも分からなかった。

興味もない知識のために、毎日ここまで時間を使う意味が分からなかった。

思考力を鍛えるにしても、それぞれが楽しめる別の方法でいいのではないかと思っていた。

「もののけ姫」公開。

感動して映画館に3回観に行った。

ますますアニメにハマり、アニメ雑誌や声優雑誌を読んでいた。

「もののけ姫」の作画監督の近藤喜文さんが急逝し、アニメーターという仕事を知った。

それから次第にアニメーターという仕事にあこがれを抱いた。

たくさんアニメをビデオに撮って見てた。

ビデオもコレクションした。

何か部活に入らなければと思って、ラグビー、体操、空手と入っては面白くなく辞めてを繰り返した。

女性のいない高校生活は味気なかった。

最終的にはほぼ活動していない演劇部の幽霊部員。

県内有数の進学校に進学した中学からのNさんとの手紙のやり取りは続いていたが、相手の手の込んだ手紙のレベルに合わせるのが面倒になってきて、別れた。

同じ中学から進学したM、Sくんと遊ぶことが増えた。

Eとも繋がっていたが、学校が変わったのと、Eがだんだん暴力的になってきて次第に疎遠になった。

ニュージーランドからの日本語大会優勝者フィリップを受け入れる2週間のホストファミリーになった。

英語で話しているだけで楽しかった。

部活も続かず、勉強も中途半端で何者でもない悶々とした思いを吐き出すために日記を書き始めた。

日記では、「なぜ自分はこうなのか」というようなその日の出来事の分析にものすごくエネルギーを割いた。

 

◯16歳(高校2年生)

アニメとマンガに没頭する日々。

宿題をやらなければと思うが、つまらなすぎて重い腰が上がらない。

夜机に向かうがたいして進まず、そのままいつの間にか寝てしまい朝を迎えることが何度もあり、その度に自己嫌悪に陥った。

1年のときの担任が、2年の担任にぼくのことを託し、担任から「東大に行こう」と言われ、驚いた。

評価されて特別感がうれしい一方で、日々東大受験に向けた個人課題が出されたが、苦痛で仕方なく、進路を日芸にしたことで課題を止めた。

いつもイライラしていた。

コンビニでMと立ち読みしているときに、はじめてカツアゲにあった。

Mは払わなかったが、恐怖で払ってしまい、恐怖に立ち向かえない自分が情けなかった。

 

◯17歳(高校3年生)

次兄が予備校のため家を出て、家がとても静かになってきた。

他人のやることがやたら気になり、弟に厳しく当たることが多かった。

長兄次兄が家を出て母親は仕事で遅いため、弟の食事の世話をすることも多く、自分は親じゃないのなんで面倒をみなければいけないのかと不満だった。

その分、弟に厳しく当たったと思う。

ある日、家のイスがハサミでビリビリに割かれていることに気付き、弟のストレスを知って、優しくしようと気持ちを改めた。

楽しみにしていたゲームをやってみると、前回どこまでやってるのかを忘れていて、なんとなくゲームから気持ちが離れ始めた。

受験勉強をやらなければいけないのに、本来の課題から逃げてマンガやアニメやゲームに走ってしまい、日々後ろめたい気持ちで過ごした。

図書館で借りた高畑勲監督の「赤毛のアン」にものすごく感動した。

不幸とされる出来事も捉え方ひとつで素晴らしい経験にしていくアンの発想に心動かされた。

ある失敗をしでかしても、アンは「わたしのすばらしいところは同じ失敗を二度しないことと」と、失敗に落ち込まず、こういう考え方の人間になりたいと思った。

監督の高畑勲さんが講師をしていた日本大学芸術学部映画学科を第一志望にした。

友人のSも同じ大学を受験するとんことだったが、なんとなく世の中を斜めに見るSに反発する気持ちがあって、受験情報を共有する気にならなかった。

やはり勉強は中途半端にしかしなかったが、ラッキーなこと第一志望だった日本大学芸術学部映画学科映像コース合格。

卒業旅行でEとHと式根島旅行に行ったが、ぼくが船酔いし、そのことをEが責めて、お互いひどく不機嫌なひどい旅行になった。

この旅行を機に、Eとの縁は切れた。

 

◯18歳(大学1年生)

はじめての引っ越し、はじめての一人暮らし。

大学のキャンパスがある所沢に住んだ。

とにかく寂しくて仕方がなかった。

一人暮らしの過ごし方が分からなかった。

ユニットバスの部屋に住むのも初めてで、収納や家具の知識・ノウハウもまったくなく、とにかく家の居心地が悪かった。

壁の薄いアパートで、隣人のステレオの音に不眠になった。

夏はロフトが暑く、寝付けなかった。

バイトをしようと、ファミレス居酒屋のようなところに行ったが、雰囲気が嫌すぎて1日でバックレた。

親からの仕送りが頼りなので、お金を使わない生活を最優先に暮らした。

大学の一般教養の講師は、変なプライドをもった変わり者が多く、本当はアニメの勉強がしたいのに、卒業のために興味もない一般教養を履修して先生のプライドに応えるためだけにこの時間を使わなければいけないのかと失望した。

好きなものを探求するつもりだったが、大学ではインスタレーションやビデオアート、アート系映画の造詣が求められる環境で、ものすごく違和感を持った。

はっきり言って居場所じゃない気がした。

同級生も、独創性というヒエラルキーをみんな意識しているように感じ、窮屈だった。

みんながセンスのあるなしで誰かをバカにしているように感じた。

有名なマンガサークルに見学にいったが、上級生の下級生を見下す態度に違和感を持ち入部しなかった。

孤独だった。

最初の宿泊オリエンテーションで同部屋だったTくんが家も近く最初仲良くなったが、なぜか毎朝家まで迎えに来るので、一緒に通学するのが面倒になり、次第に疎遠になった。

長兄に大学の違和感をメールで相談していて、ぼくが「自分はスノッブ(教養ありげにふるまう人)にならないように気を付けたい」というような内容を送ったら、長兄はそれを自分への批判と受け止めて激怒し、ぼくもまったくそういうつもりで送ったわけではないのに勝手に激怒している長兄と距離を置こうと思い、1年間口をきかなかった。

大学には、居場所がなかった。

大学の課題から逃げるようにゲームに没頭した。

ビデオカメラを買うために、正月に野菜の加工工場で初バイト。

機械のような作業と、工場で働く人の狭い人間関係に疲弊した。

寂しかったのと隣室の音が筒抜けのアパートの居心地が悪かったので、大学1年の終わりに実家に戻った。

 

◯19歳(大学2年生)

アニメーターになりたいと思いつつも、本格的に絵の練習をするわけでもなかった。

いつも本質的な問題から逃げる自分が本当に嫌だった。

「じゃじゃ馬グルーミンアップ」というマンガが好きで、マンガで表現される、挫折や成功を通じて成長する姿にあこがれた。

変なプライドがあって、自分の底の浅さを知られることが怖く、人との間に壁を築き、世界を広げることが出来なかった。

友達ができなかった。

そういう自分を、ずっと変えたいと思い続けていた。

大学という場所は、なんとなく「アニメ」ではなく「アート」について語らなければいけない気がしていた。

アニメーターになりたいが、大学で語るべきアートの世界に順応するために、どうしていいかわからなかった。

大学で必要になったパソコンを通じて、中学の同級生のFと親しくなり、MやHなども交えて、スーパー銭湯で語り合う時間が楽しかった。

Fとは明け方までくだらない話を喋った。

ある課題で、なんとかアートに寄せて作品を作ってみて、その発表と質疑応答の際、同級生Yくんに「ぐつちくんの言ったことは何一つ響かない」と言われ、大変なショックを受けた。

自分では一生懸命アートに順応して作りたくもないものを作ったつもりだった。どうしていいかますますわけわからなくなった。

自分の底の浅さが見透かされた気がして、恥ずかしくて仕方なかった。

ただ一方で、アートとされるものが語る、「分かる人には分かる」というようなゲームっぽい哲学的テーマが苦手だった。

それは、ゲームを楽しむ人間のためだけの狭いルールのゲームに過ぎないのではないか。

それは単なるゲームに過ぎず、その作品に込められた意味を見出したからといって、いったい何が起きるのか、意味がないのではないか。

それであれば、宮崎駿さんや高畑勲さんののエンターテイメントのように、ほんの少しでも生き方のヒントが込められた芸術作品に意味があるのではないかと思っていた。

だが、当時の自分はそこまで自分の軸がはっきりしておらず、あらゆる価値観やあらゆる軸に翻弄されていた。

長兄が京都大学大学院で、先の見えない研究生活と周囲のレベル高さとのギャップからうつ病になり、実家に戻ってきた。

食べ物が土の味がすると言っていた。

実家に戻ってきてた長兄の自治医大への最初の診察に一緒に行った。

うつ病について調べて、興味を持った。

長兄は1年休学した。

たしかこの頃、寝ている時、部屋の扉が少し開いてすきまから何かがのぞいているが、ぼくは金縛りで動けず、それが部屋に入ってきてぼくのベッドの下に入り込み、かつてない恐ろしさを感じた(という夢?)。

なんとか体を動かして電気を付けてベッドの下を見るが、何もおらず。

いままで一番怖い経験だった。

 

◯20歳(大学3年生)

3年になるとキャンパスが所沢から江古田に移り、念願の高畑勲さんの講義を受けることができた。

次兄が就活うつのような状態になり、実家で兄の自己分析に付き合った。

落ち込む兄の話に付き合うのはかなりエネルギーを使ったが、根気強く話を聞いた。

しかし、結局社会人の先輩と電話で話して「先輩の話が聞けたおかげで元気になれた」とやっとすっきりした兄を見て、自分がやったことはなんだったんだろうと徒労感が残った。

ぼくが広島国際アニメーションフェスティバルを見に行くのに合わせて、地元の友達のFとHと広島旅行をしたが、すべてにルーズで、知識偏重で自分がないFに愛想が尽きており、一緒にいることが嫌でまったく楽しくなかった。

自分は中途半端だと感じるたびに自意識過剰になり、道で誰かが笑っていると自分のことではないかと思った。

そういう自分も嫌だった。

自信を持ちたかった。

友人から教えてもらった「芸術学特殊講義」という相川宏先生の授業に出て、錬金術やグノーシスムーブメントなどのアンダーグラウンドの知が、いかにオーバーグラウンドの表現に影響したかという独創的な視点が刺激的だった。

大学の間で一番刺激的な授業だった。

 

◯21歳(大学4年生)

大学の卒業課題がなかなかできずに、提出がギリギリになって単位を落としそうになり、昔から計画通りできない自分は変わっていないと自己嫌悪に陥った。

Fにも協力してもらい、なんとか完成。

大学では、KくんとOくんと仲良くなって家に泊めてもらうこともあったが、お互いに一線はあるままだった。

いまの実力でアニメーターになれるわけないと、深く考えず就職活動をせずに卒業。

卒業時、成績優秀者に送られる賞を受賞。

 

◯22歳〜24歳

とりあえず近所のヤマダ電機でパートを始めた。

体育会系のノリも、一切研修もなく売り場に立たせるスタイルも、すべて嫌だった。

客からの質問も、商品知識が一切ないので、その場でパンフレットを見ながら調べるしかなかった。

正しい説明もなかなかできず、クレームが恐怖だった。

すごいストレスの日々だった。

ある客から「このキーボードはPS2で使えるか?」という質問をされ、キーボードにはPS2という接続規格があったので「使える」と答えたところ、帰宅したその客から激怒した電話がかかってきて、「てめえは〜」と怒鳴られまくった。

客が言ったPS2はプレイステーション2(プレステ2の接続規格はUSBなので使えない)のことをだったらしいが、それ以上にぼくの態度が気に食わないようだった。

ショックでかなり落ち込んだ。

「てめーが勝手に勘違いしただけで怒鳴り散らしてるんじゃねーよバカが。1000円のキーボードごときで怒鳴りちらしてなんつーちいさいやろーだ。」と言いたかった。

だが、やはりぼくの態度は人を不快にさせるのだと、いままで以上に何重にも仮面をかぶってコミュニケーションをとるようになった。

理不尽な苦情に心底嫌気がさした。

客はうんこにたかるハエだと思っていた。

とても続けられず3ヶ月半で退職。

退職してみると、自分はついにどこにも所属しない何者でもなくなったのだと、猛烈な不安に襲われた。

ストレスから十二指腸潰瘍になって、体重が50キロを切った。

次兄は、民間への就職を止め、公務員に。

長兄も大学で政治思想の研究者の道を諦め、家庭裁判所事務官を目指して実家に戻ってきて勉強漬けの日々。

ずっと一緒に暮らしてきた祖母が死去。

楽そうなので近所に新規オープンするネットカフェで長兄と一緒にバイトを始めた。

同じく一緒にバイトをはじめた次兄の知り合いのFさんと、仲良くなり付き合うことになった。

はじめてまともに付き合ったことから舞い上がってペアリングを買ったりしたが、とにかくFさんからの毎日のメールの量がすさまじく、一度始まると3時間は終わらなかった。

内容も個人的な日記のようで「ふーん」としか言いようがなく、返信にこまった。

次第にメールが来たバイブ音に恐怖を覚えるようになって、3カ月で別れた。

将来への不安からくる精神的な不安定をなんとかするために、仏像を描いたり「男はつらいよ」を見たりしていた。

大学の後半に仲良くなりイタリアのアニメーション作家に弟子入りしたHさんとメールで連絡を取り合っていたが、なぜか途中で音信不通になった。

気付かないうちに、何か不愉快なことをしたのだろうかと悩んだ。

たまたま近所の文房具屋に貼ってあったマンガ家のアシスタント募集の広告を見つけ、とりあえず大学の課題で作ったアニメを送って面接をした。

その漫画家から、「東京にでないとダメだよ」と言われ、なんのアテもなかったが、アニメーターになりたがっていた親戚も誘い、豊島区の風呂なしアパートに引っ越した。

何をやっていいか分からず、図書館にいって絵を描いたりする生活だった。

書き溜めた模写や仏像、デッサンを持ってアニメスタジオ一社を受けたが、「もっとアニメのキャラクターとかを描いたものでないと分からない」と言われ落ちた。

どうしていいかわけがわからなくなり、大学の友人のOくんとともに大学の先生に相談。

相談しながら、自分の不甲斐なさや将来への不安に、ファミレスで号泣。

これをきっかけに、アニメーターを目指すことを止め、就職することにした。

東京での生活を3カ月で切り上げ、実家に戻り、前と同じネットカフェでバイトを始めた。

ネットカフェのバイトで仲の良い後輩ができたり、それなりに楽しくバイトをしていた。

その中のひとりでぼくに好意を寄せていたTさんと付き合うことになった。

後輩Kが好きだったが、先輩後輩以上の関係にはなれず。

Tはネットカフェのパートになり、店長代理になった。

とにかく人間関係でゴタゴタすることが多く、誰が仕事の手を抜いている、タバコをパクっている、誰のことが許せないという、幼稚な話がよくあった。

Tは事務仕事と店舗作業の両立が器用にできず、ぼくを含めて店舗作業スタッフからイラつかれることが多く、昔からのスタッフが辞めていった。

ただ、そもそもの人の配置の少なさが根本的問題だったと思う。

遊びの知識が豊富で自分の知らないことを知っているTといることは楽しく、就活はそれなりで遊んでいた。

その結果、狙っていた会社にすべて落ち、やはり自分はダメな奴と後悔にさいなまれながら次兄に相談したところ、狙っていた会社の別の試験が残っており、受けたところ合格。

死ぬほど安心した。

大阪芸術大学を卒業し地元に戻っていたSくんは、いわゆる普通の就職を否定的に捉えており、ぼくが地元を離れるので地元の友人が送別会を開いてくれたときに「自分がいると場を不愉快にさせることしか言えない」と連絡があって縁が切れた。

以来、連絡はとっていない。

家賃が安かったので板橋区に引っ越し。

Tの親がぼくと一緒に東京に出るようTに猛プッシュしたらしく(生活資金としてTに100万渡したとのことだった)、Tも一緒に東京に出ることになり同棲がはじまった。

 

◯25歳〜26歳

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社会人一年目。江東区の出先に配属。

右も左もわからず、とにかく順応しようと必死だった。

言われることは何でもやった。

周りは高齢の社員が多く、課長を含め独自ルールばかりの理不尽な世界だった。

自分たちの部屋でプラモデルを作る社員、お酒を飲む社員。課長は新聞を読んで爪を切っていた。

が、みなプライドは高かった。

自分が我慢することで、うまく回そうと思った。

それが仕事だと思い込ませた。

お客からの苦情が嫌だった。

メンターのOさんは年も近く、仕事を俯瞰している人で信頼していた。

ぼくが芸術大学出身だったので、施設のPRビデオ作り、チラシ作り、ポスター作り、マスコットキャラクター作りなど、様々なことを任されたが、どれも一生懸命やった。

大学の奨学金の返済と、就活のために親から借りたお金を返すため、とにかくお金を使わないことを心がけた。

仕事のミスを引きずることが多く、気持ちを切り替えるためにTのすすめで近所の体育館のヨガクラスに通い始めた。

とてもフィーリングの合う先生で、ヨガは楽しかった。

同棲をはじめたが、Tはかなり気分屋で、ちょっとしたことで不機嫌になった。

自分も不機嫌になると口をきかなくなった。

一緒にディズニーランドに行ったときに、ぼくが乗る電車を間違って予定通りの時間につかなかった。

そのことでTが一日不機嫌で、「自分は何も決めていないし行動していないくせに、なぜこいつが不機嫌なんだ」と、どんどんTから気持ちは離れていった。

中学校からずっと引きこもっていた一つ年下の親戚が、焼身自殺。

子供の頃はよく遊んだ。

 

◯27歳~28歳

出先から本社に異動。

仕事の内容がまったく変わり、爆発的に残業が増え、生活が激変。

残業は多い月で70時間。23時頃に帰ることも多くなった。

周りも優秀な人が多く、とてもついていけないと思った。

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最初は仕事を覚えるために休日もマックで仕事の資料を読んだ。

その分、同棲していたTは一人の時間が多くなった。

パートで勤めていた会社の人間関係が良くないらしく、よく愚痴を聞いたが、仕事で疲れていたので、正直それどころではなかった。

どうでもよくなってきた。

Tはパートを止め、派遣で不定期に働くようになったが、一人の時間をネットゲームで過ごすようになり、生活も夜型になった。

なにか決め手があれば結婚しようと思っていたが、むしろ地元にいた頃からどんどん冷めていった。

Tがただ毎日ゲームをして、太っていくようにしか見えなかった。

何か変わるきっかけにならないかと、あえて本人の興味のあるゲームの話を聞いたりしていたが、Tの生活は荒んでいった。

最終手段として、結婚の話をしたが、Tからすると、ぼくが一人で勝手に考えていたことが不満らしく、ぼくもTの生活を戻すための結婚に本心では乗り気でなく、具体化はしなかった。

同じ部署に異動してきた人に気持ちが動き、Tから気持ちが完全に離れたことを知り、別れた。

異動してきた人には振られた。

同じ部署で、たまたま同期でたまたま同い年だったYと仲良くなり、Yの家によく泊まりに行って遊ぶ仲になった。

仕事は堅実にこなしていたため、会社での評価は上がっていた。

先輩のMさんを中心としたグループで誰かの誕生日にカラオケにいったりして、職場の人間関係的には一番充実した時期。

 

◯29歳

同じ部署の経理になり、仕事の忙しさがフィーバー。

この時一人で管理していた予算は1700億円。

一ヶ月の残業が150時間になることもあり、ほぼ仕事だけをしている日々。

朝の4時まで仕事をして、次の日の9時にはまた出勤しているという日もあった。

頭のネジを外さないとてもやっていけないと、遠慮がちな自分を捨てた。

部署と部署の間に挟まるだけセレモニーのような仕事なのに殺人的に忙しいことに意味を見いだせなかった。

いつも頭が熱くて、冷やさないと眠れなくなった。

同じで以前一緒に仕事をしていたカラオケ仲間のOさんにアプローチするが、入社時から付き合っている人がいるとのことで振られた。

一緒に仕事をしていたKちゃんのことも気になったが、長く付き合っている人がおり、どうにもならず。

仕事に追われるだけの生活で、この頃は仕事以外に何が情熱を注げるものが欲しくてしかたなかった。

意味の見いだせない激務を2年続けることは無理だし、どうせ命を消耗するなら、なにか意味のあることをやりたいと思って、異動に被災地支援を希望。

尊敬する先輩だったMさんが、仕事の忙しさから自暴自棄になり、浮気っぽいことをしたのが奥さんにばれて修羅場になったらしく、その勢いで飛び降り自殺してしまった。

Yは暇な部署で、ぼくによく連絡してきたが、ぼくは猛烈に忙しく、次第に付き合いが悪くなった。

ある日Yからパソコンを買ったから設定してくれという連絡がきて、忙しくて無理だと断ると、以後一切連絡が取れなくなった。

あとで共通の友人に聞くと、「自分は色々してやったのに、あいつは何もしない」と言っていたらしい。

自分が一方的に何かしてやったと思っているのも子供染みていると思ったし、相手の状況を考えずに自分に何もしてくれないからと急に一切連絡を取らなくなるのも子供のようだと思った。

仕事が忙しかったので、関係に未練もなかった。

一方で、小中と仲の良かったEにしろ、高大と仲の良かったSくんにしろ、今回のYにしろ、自分はいつも関係が続かないなとも寂しくも思った。

 

◯30歳

被災地へ異動。

着任式で代表として挨拶した。

新聞にも取り上げられた。

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派遣された部署では、すべてが場当たり的・前時代的、仕事のための仕事で本質的には何も解決していかないように感じて、激しい怒りを覚えた。

引っ越しても派遣前から仲の良かったKさんとはまだつながっており、GWは一緒に東北の祭りを回るツアーに参加。

もしかしていい関係になるのでは?と期待を持ったが、次第に連絡が滞るようになり、いつの間にか前の彼氏とヨリを戻していた。

激しい嫉妬に燃えて、おかしくなりそうだった。

がむしゃらに仕事。

同じ部署に入ってきた新人のOくんとすごく仲良くなった。

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秋にある昇任試験に向けて、休みの日は勉強。

とにかく彼女が欲しくて、結婚がしたくて、街コンなどにも参加。

人間関係で色々あった。

昇任試験の筆記に合格。

被災地にいられる期間の1年の間に、持てるものをすべて出そうと、仕事の提案を矢継ぎ早に出し、そもそも職員の土台を変えなければと新しい研修プログラムを提案。

次第にアイデアマンということが評判になり、風通しを良くするための職場新聞プロジェクトに呼ばれたりしたが、職場新聞で風通しを良くしようという提案にも意味がないと感じイライラした。

絶えずイライラしていた。

このころから、本を読んでも人と話していても内容が頭に入ってこなくなった。

何も楽しくなくなってきた。

11月のある日出社すると、電話のベルが神経を刺激して不安が押し寄せ、耐えられず心療内科へ。

適応障害と診断され、3月までだった派遣が短縮され終了。

12月に以前の職場に戻された。

東京に帰ると、エース職員からの転落という感じだった。

みな気まずい雰囲気だった。

派遣先の病院から紹介された新宿の精神科へ通院をはじめた。

職場が東京に手配してくれた住宅が清澄白河で、髪を切ろうと床屋にいって、Mちゃんと出会った。

東京に戻って体調は回復傾向にあったが、SNSで輝く他人が気になりすぎて体調が悪化し、休職。

友人から「SNSをやめなはれ」と言われ、ハッとして止めた(その後7年一切触れず)。

休職中も、清澄白河の床屋には行ける気がして地元の群馬から髪を切りに行った。

1ヶ月半で復職。

職員住宅が借りられる特別措置の期間が過ぎることから、江古田へ引越し。

それをきっかけにMちゃんから連絡があり、食事にいくことに。

 

◯31歳

落ち着いた飯田橋にある部署に異動し、仕事も少なかった。

床屋で会ったMちゃんの素直さに魅かれ、付き合うことになり、休みが合わないながらも日曜の夜の仕事終わりに泊まりに来たり、穏やかな日々。

夏には諏訪の花火大会を見に2人初の旅行へ。

諏訪の花火大会史上はじめて、大雨で中止になった。

バスに缶詰になり、宿に着いたのが朝の6時くらいだったが、その状況を楽しむMちゃんの姿が新鮮だった。

落ち着いた部署で、のんびりダラダラと仕事をする人たちに、命を削って仕事をしている人もいるのにとイライラしていた。

上司が多分アスペルガーで、調整が出来ず仕事的には話にならず、その割にはプライドの塊で対応に困った。

 

○32歳

同僚のNさんという女性が、残業中にNさんがぼくに同意を求めてきた上司への悪口に付き合わなかったところ、ぼくを敵視するようになり、ちくいち行動を監視されるようになった。

あまりのレベルの低さにあきれた。

夏にはMちゃんと初の海外セブ島へ旅行。

ジンベイザメと一緒に泳げたり、最高に楽しい旅行。

正月に一緒に旅行した広島厳島神社でプロポーズし、Mちゃんと結婚することになった。

Mちゃんが細木数子の占いで入籍は翌年がいいと言ったので、正月から1年入籍を先延ばしし、結婚式準備。

9月昇任試験合格。

11月に結婚式。

自分たちの想いと様々な人のセンスが結集した結婚式は最高だった。

最初の挨拶で号泣。

Mちゃんは貯金ゼロだったため、全ての費用をぼくが出した。

昇任試験、結婚式準備と同時に、新居探しをはじめたところ、Mちゃんの店の近くの相場が高く、Mちゃん母のススメもあって、Mちゃん実家(借地)を二世帯にリフォームすることに。

複数社とのやり取りの中で、MちゃんもM母も口は出すが、手続き的なことは分からない・できないとのことぼくに丸投げする姿勢に疑問を持ちつつ、打合せを重ねた。

屋上への外階段を付けるかどうかで揉め、結局見積りを依頼していた業者ではなく、Mちゃんのつてで連れてきた個人業者に依頼することに。

これまで様々な業者とぼく一人で調整してきたのに、その苦労をねぎらうことなく自分勝手な思いで好き勝手言う二人に消耗した。

実際にぼくの名義でリフォームローンを組むに当たり、司法書士に相談したところ、すでに実家はMちゃん妹のマンション購入のための抵当に入っており、担保にならないことが判明。

そんな大事なことを忘れてリフォームをさせようとしてたM母に、この人は信用できる人なのかどうか疑いを持った。

自分の母親に相談したところ、実家の抵当権をとるためにM妹のローンについて出してくれるとのことで、母がM妹に800万貸す形でローンを返済し、実家にかけられていた抵当権を解除した。

書類が整い、建物所有権をぼくに移して銀行にローンの申請をしたところ、所有権を移したことを知った地主の寺の不動産屋から「名義を変えるとは聞いていない」と激怒の電話がかかってきて、話は白紙に。

その後話を聞いていると、地主の寺の住職はかなり相当金にうるさく、細かい因縁を付けては借地権者に裁判を起こしているやばいやつらしく、そういう大事なことが全く話に出てこなかったM母に信用は無くなった。

人柄は素晴らしい人だけど、二度とM母とお金に関しては関わるまいと決意した。

約半年間、揉めに揉めたやりとりが無意味に終わったショックで、燃え尽きた。

その後、もうどうでもいいからさっさと決めようと、たまたま売りに出た築40年すぎだが状態のいいマンションを35年ローンで購入。

勢いで買ったが、ローンのプレッシャーを感じた。

頭金や引っ越し費用、家財道具を揃える費用は、すべて自分が出し、600万くらいあった貯金が結婚式もあったので200万くらいに。

結婚休暇がもらえたが、Mちゃんは休みがとれないとことで、母親を連れてカンボジアのアンコールワットに行った。

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3月末にあわただしく引越し。

引越してすぐ、エアコンを取り付けていると、ベランダから隣人のおばさんが「うるせえ」と怒鳴ってきて、とんでもない隣人のマンションに越してきたとショックだった。

 

○33歳

昇任と同時に再び本社に異動。

これまでとまったく毛色の違う法務的業務、文書の体裁を審査する機械的な仕事や、訳の分からない理由でいつまでも拘束するただのクレーマー、何よりも、すべて口頭伝承で何も見える化していない係長のスタイルに合わず、疲弊して次第に仕事のことばかり考えるようになった。

これまでとまったく毛色の違うジャンルの仕事だったが、係長は体系立てて説明することが苦手な人で、「主任だからこれくらい知っていて当然」という人でもあり、聞きづらい雰囲気で居心地が悪かった。

係長は他人の仕事を評価するのがクセだったが、そもそも自分たちの係がちゃんとルールを伝えていかないと他の部署がミスするのは当たり前で、その努力をせずに他人を酷評する姿勢に、この人は仕事が分かっていない、合わないと強く思った。

それでも、係長の周囲からの評価は高く、ぼくには意味が分からなかった。

こういう人を係長にしたらダメだろうと思ったが、結局係長なんてこの程度のやつなんだと思った。

この人と1年やれるのだろうかと不安になった。

また、これを耐えたところで、もうぐつちは大丈夫だと思われてまた殺人的に忙しくなる一方なことが見えているので、頑張る意味が見いだせなかった。

今振り返ると、これまでのパターン通り、誰かの大きな感情に過剰反応して、自分の人生を決定づけていた。

自分の楽しさを見出すことにエネルギーを使ってこなかった。

GW初日に布団から起き上がれなくなり、うつ病再発。

再休職。

気分のマシな日と全くダメな日の波があり、もう二度と良くならないのではないかと絶望。

通院と眠る日々。

うつ病の原因は霊障だとM母に誘われて、宗教に入信。

教団施設へ通うようになった。

M母も一緒に通い、面倒見のよいM母と過ごすことが多かった。

Mちゃんの家族は、M母を筆頭にうつ病に偏見がなく、日中寝ていても普通に接してくれてありがたかった。

6月にMちゃん家族と出かけた先で、Mちゃんの提案で近くの犬舎を見に行き、M母が突然この子にすると大型犬を飼うことを決めた。

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8月から健保組合が実施する職場復帰に向けたリワークプログラムに参加。

認知行動療法やマインドフルネスと出会って、少しずつ病気に対するとらえ方が変化した。

送りバントのような地味な日々だった。

Mちゃんの明るさに支えられた。

12月職場復帰。

復帰は前の職場が原則なので、休職した時の職場で、相性の悪い上司に振り回されつつ、なんとか出勤を続けた。

体調は日々異なるので、業務を棚卸し、今日は何ができそう、こういうことは苦手という話し合う場を持ちたくて、復帰をサポートしてくれる相談員を通じて伝えたが、「様子を見ていれば体調はわかる」の一点張りで、話し合いは一度も持たれなかった。

体調が悪いと言えば一切やることが無くなり、何も言わなければ突然苦手としている仕事がふってくることもあり、上司からのサポートは一切なかった。

ここでも、自分の外側に振り回された。

組織に、芯の芯まで失望した。

 

○34歳

本社を離れて出先へ異動。

かなり落ち着いた業務分担で、少しずつ体調回復。

エネルギー節約の日々を心がけた。

プライドが高く、仕事の力の入れ所が的外れで、すぐキレる職場の人たちに、またこういう人たちの相手をするのかと気持ちが萎えた。

社長が職員目安箱を設置したので、仕事の空き時間に投稿。

会社全体でこれまで30くらいのアイデアが採用されたが、そのうち5つくらいは自分のアイデアで、自分は終わった人間だったと思っていたが、アイデアが多く採用されたことで、自分も発揮する場所があっていれば、まだ輝けるんではないかと思うようになった。

宗教は、教団が課す義務が段々面倒になり、いかなくなっていった。

 

○35歳

共働きで自分に元気もなかったので、Mちゃん実家でM母の用意したご飯を食べ、休日は犬の散歩をする日々。

最初結婚する時に、店の借金が3年くらいで終わるので、そうすると生活が楽になると聞いていたが、いつまでも終わらないし、終わったと思うと別の借金が出てくるし、Mちゃんの給料が変わらない割りにM母の金遣いが荒いしで、どうなってるんだろうと思っていた。

自分が口を出すことでもないと、内心おかしいと思いつつほうっておいた。

ただ、いつまた体調を崩すか分からず、仕事を続けるのも嫌で将来が見えない中で、貯金が増えない生活に不安があった。

Mちゃんが、家でM母が用意するスーパーの惣菜中心の料理が許せないということで、自分たちの家で食べるようになった。

かといって、献立を考えることが最大のストレスと話すMちゃんは、何をやるわけでもなかった。

献立を考えるのも、買い出しも調理もぼく。

休日は犬の散歩と掃除、洗濯、買い出し、調理といった家事でかなりの時間が過ぎた。

Mちゃんは家事をやらず、休日も犬と出かけており、ぼくの不満がたまった。

だんだん、ぼくはただの家政婦のような気持ちになってきた。

Mちゃんの優先順位は、犬、自分、ぼくのようにみえた。

Mちゃんは、犬を蔑ろにすることには過敏に反応した。

まとまった休みでも、犬との旅行がほとんどだった。

犬との旅行はそれなりに楽しかったが、二人で過ごす時間はなくなっていった。

ただ、犬はMちゃんにとって大事な存在で、別に否定するものでもないので、どうしていいかわからず、とりあえず合わせていた。

ぼくが料理はできるだけちゃんとしたものを作ろうとしているにも関わらず、買ってきた朝食用のパン(売っている中では添加物の少ないもの)に、「こういうものは添加物が入っているから買わない方がいい」と原材料も見ずに言われて、「自分は家事をロクにしないで犬と遊びいっているだけのクセに、こいつは何様なんだ」と怒りが沸き上がった。

一度、洗濯でMちゃんの服が色落ちし、ぼくの仕事用Yシャツがすべてどピンクになって、落とすのに丸一日かかった。

ただでさえ家事で自分の時間が少ない休日がさらに浪費された怒りで、気を付けるように言っていると、言われ続けるとどうでもよくなるというMちゃんの性格で、逆ギレし、1週間くらい口をきかなかった。

Mちゃんの考えは、「自分が洗濯をお願いしたわけじゃない、文句を言うなら、すべて別々でやればよい、結婚式もお願いしたわけではないのに、ぐつちばかり苦労するように言われて、不満」とのことだった。

大事なお金で一生懸命挙げた結婚式も、一生懸命貯めた貯金で購入したマンションも、「自分がお願いしたわけじゃない」で片づけられて、「もうこの人は犬さえいればいいんだな」と思った。

お願いしたわけじゃないことを言われる筋合いはないという理屈に、「だったらもう勝手に一人で生きていけばいいじゃないか」と思った。

Mちゃんに対して、パートナーという気持ちがなくなり、ただ犬を飼う人、という気持ちが強くなっていった。

 

○36歳

抗うつ薬サインバルタの断薬。

Mちゃんが税理士を雇うようになり、これまでのM母の本当の経営状況が分かってきて、MちゃんとM母の関係が悪化。

さらにM母は、実家に犬がいることを、なぜか「Mが飼い主なのに自分に押し付けている」とMちゃんを責めるようになり、Mちゃんもそれなら自分が言い出して買った犬だとマインドセットを書き換えようとますます犬に傾倒。

頻繁に犬と旅行に出かけるようになった。

その間もぼくは家事をこなしていた。

Mちゃんはいつもピリピリしていて、何をしゃべっても非難めいていた。

5月頃に突然Mちゃんが犬と住めるマンションを人から教えてもらい、マンションのローンが残り、いくらで売れるかも分からない状況で引越すことになり、借金がどうなるか分からない状況にぼくはナーバスになり、抗うつ薬の断薬症状のストレスもあって、神経過敏になり、引越してすぐ7月に再度休職。

犬の息遣いにすらイライラして仕方なかった。

体調が悪化する中で、以前は病気に対してどうってことないとフラットに見守っていたMちゃんも、今回は、「なんでこのくらいで」と不満を持っているのを感じた。

Mちゃんの不満のオーラと犬のいる家にはいられず、主治医のアドバイスで休職し実家に避難。

群馬の実家で図書館とレンタルコミック屋さんに通う失意の日々。

1か月くらいしてMちゃんが犬をいったん実家に戻すことに決め、主治医も交えて話し合い、東京に戻ることに。

このころ、シータヒーリングのTさんと初めてセッション。

セッションでこれまで続けてきたのは、「不安からの行動」だと気づき、「本心からの行動」を3カ月やってみることに。

色々なことを試しても再発するので、色眼鏡なく試してみようと思った。

「今何を食べるか」という小さな事から、体調がどうとか、お金がどうとか、仕事がどうとかという条件を外して、「やりたいかやりたくないか」と自分に自問自答して決めてみた。

動画をきっかけに知った、心と体をほぐして魂を癒す鵠沼海岸のSandySPAで山口ユースケさんの施術を受けた。

心と体は車の両輪で、体がほぐれないと、心もほぐれない(本心が出てこない)ことや、うつ病患者は感情エネルギーが大きいので、エネルギーのベクトルを変えると、ポジティブにも大きく開くことを知った。

武田双雲さんの「ポジティブの教科書」を読んで、ポジティブは性格ではなく技術であることを知った。

“「いつか」の楽しさではなく、「今」の楽しさの先に本当の楽しさが続く”という言葉が印象に残った。

山口ユースケさんと恵比寿のスピリチュアル美容師ニワちゃんのブログで取り上げられ、ブログのPVが一気に10倍に。

やりたいことの一環で、沖縄にノープラン一人旅。

その時その時、好きな時に起き、好きな時に好きなものを食べ、好きなだけビーチにいて、好きなところへ行く。

感覚で動くことの楽しさを味わった。

10月復職。

全身脱毛、自由に生きる友人を訪ねる、アメリカのマインドフルネス講習会参加など、気持ちが動いたことを無条件に試した。

MちゃんがTさんの長期セッション「Awakener Project」を受けはじめた。

島根で開催された双雲塾オープンセミナーで、9月に著作を読んだ武田双雲さんと直接会えた。

夢の持ち方、仕事の辞め方、理不尽な出来事との向き合い方など、多くの大切なヒントをもらった。

1泊2日を共に過ごし、目の前のすべてを楽しみ味わい尽くす双雲先生の在り方に感動。

こういう生き方をしている人が現実にいることに衝撃を受け、これが、無条件無目的に瞬間瞬間ふくらみ続ける「生」(岡本太郎)だと思った。

裏磐梯へ、恒例の犬旅行。2回行った。

自分の気持ちに余裕がある範囲で、犬との時間も大切にしようと思っていた。

 

◯37歳

抗うつ薬の再減薬開始。

2回目のTさんのシータヒーリングで、二元論でない究極のフラットの宇宙像、もうすでに自家発電した愛で満たされていること、ネガティブな感情は自分を知るヒントという、新鮮なとらえ方に惹かれて、Tさんの長期セッション「Awakener Project」を受けはじめた。

すでに「Awakener Project」を受けていたMちゃんが、やりたくないことを手放す一環で、10年続けた理容業を休業。

ぼくは、Awakener Projectで、自分史を書き、自分がこれまであらゆることで同じパターンを繰り返し続けてきたことに気づいた。

初めての海外一人旅でインドのヨガの聖地リシケシへ。

後半O-111で大変な思いをするも、精神科への通院を続けながらインドを堪能できた自分に驚いた。

帰国後、神経過敏の症状が発症し、戸惑った。

神経過敏の症状をきっかけに、7年通院した精神科を転院。

自律神経失調症ではなく、不安症の条件性情動反応という診断を受け、エクスポージャー治療を開始。

抗うつ薬減薬中断。薬の調整。

休業後も、犬との時間がますます増えていくMちゃんが耐えられなくなり、Tさんに背中を押されて犬と愛情について、Mちゃんと本音で話した。

ぼくは自分がないがしろにされていると感じていることを伝え、Mちゃんは犬のシングルマザーの気持ちだとお互いの考えを話した。

ちょうどそのタイミングで双雲塾オープンセミナーへMちゃんと参加。

パートナー関係について、大切なヒントをもらった。

その後のぼくの行動がきっかけで、Mちゃんの心が折れ、一切口をきかなくなった。

これまで同じパターンを繰り返してきたので、他人の感情に振り回されて自分の人生の方向を決めることを止め、Mちゃんを見守りつつ自分のやりたいことを続けた。

インドで知り合った方に紹介しいてもらったヨガリトリートに参加して伊豆へ。

リトリート中に、MちゃんからLINEで離婚を切り出された。

感情がぐちゃぐちゃになり、シータヒーリングに対する否定的な気持ちになった。

Mちゃんに謝罪するが、決心は変わらず。

Tさんも交えて話し合い、別居することに。

Mちゃんの希望で、別居するまでMちゃんは居ないものとして過ごすことに。

2人の話し合いから時間が経ち、少しずつ、一過性の感情が落ちていき、Mちゃんへの感謝が残った。

Mちゃんが引っ越すタイミングで、ゼロからそれぞれのストーリーを作っていくのがいいだろうという気持ちになり、9月に離婚。

たくさん人に会っていきたいという思いをベースに、シュリシュリさん講演会、本田健さん講演会、しつもん読書会に参加。

武田双雲さんの現代アート購入。

Tさんのシータヒーリングの先生である椎名先生のマントラを使った瞑想ヨガを体験。

引越しは負担なので、しばらくMちゃんと住んだ家に住むつもりだったが、指輪を売ったのをきっかけに断捨離しようという気持ちになり11月引っ越し。

Mちゃんと離れたことを実感した。←いまここ。

 

ふー(^◇^;)

2万4千文字!

ここまで読んだ方はすごい!!!

 

さてさて、ぐつち自分史を読んで、同じパターンを繰り返すために、「ぼくがぼくに作ってる罠」

みなさんわかりました??

関連記事:Awakener Project「自分で作っている自分の罠」 - ナチュラルなイキカタ

 

 

ぼくは、

他人の強い怒り

かなと思ってます。

それで、自分の人生の方向性を決定付けちゃう。

その人の怒りは、ぼくの問題じゃなくて怒っている人自身の問題なのに。

必ず人生の節目でキレ系のキャラが登場して、ぐつちのあり方を決めつけてしまう。

キレ系キャラにあり方を決定付けられてるから、またキレ系キャラを引き寄せてる。

結局、誰一人その後もつながっている人はいないにもかかわらず。

 

自分の人生を作るのは、自分の感覚。

それって自己肯定感ともちょっと違う。

あえて言うなら、

自己決定感!

自分で決めたことを、やってこう。

 

ぐつち