こんにちは。ケトラーです。
今年亡くなったスタジオジブリの高畑勲監督は、宮崎駿監督の著書「出発点」に寄稿した文章で、宮崎駿監督のことを「エロスの火花」と表現されました。
この表現は、実に見事だと思います。
国語辞典によると、「エロス」の意味は、「特定の人に対する、性愛としての愛」とあります。
「セクシュアル」に近い言葉のイメージです。
ところが、「エロス」には別の意味もあります。
「生の欲動」
です。
生きるエネルギー、生命感と言ってもいいかもしれません。
高畑勲監督は、こちらの意味で宮崎駿監督を「エロスの火花」と表現したのだと思います。
火花が飛び散るように、宮崎作品ではだれもが生き生きと躍動し、わたしたちの五感を呼び起こします。
作品から放たれる生命感が、多くの人を魅了し、作品世界に引き込まれていきます。
さらに高畑勲監督は、その作品以上の生命力を、宮崎駿監督自身に感じたのでしょう。
ところで、この「生の欲動」としてのエロスは、精神分析の創設者フロイトが提唱した、
エロス(生の欲動)
と
タナトス(死の欲動)
という相対する概念からきています。
どちらもギリシャ神話の神の名前です。
エロス(エロース)は恋心と性愛を司る神。
タナトスは死の神です。
「無意識」と「性」という概念を、精神を解き明かすカギだと考えたフロイトは、エロスとタナトスという2つの欲動によって、人間の創造と破壊を説明できると考えました。
エロスは、「エロ」という日本語として、いかがわしい雰囲気をまといつつ定着しました。
一方で、戦争や自殺などの無に至ろうとする人間の攻撃性の象徴であるタナトスは、日本ではほとんど知られていません。
このように、タナトスを日常から遠ざけて無視し、エロスを「エロ」として地下化させたことは、日本独特の人間観を象徴しています。
わたしの体感として、うつ状態に至ると、食・睡眠・性という生きる欲動が極端に低下し、一方で全てを終わらせたいという衝動に駆られます。
そこで、はじめて自分に内在していた「死への欲動」を意識します。
エロスを否定すればするほど、無意識にタナトスに近づく円運動のように。
にもかかわらず、日本のようにタナトスを忘れている社会では、エロスを古臭いもの、合理的な人間には不要なものとして、一方的に地下に押し込めてしまいます。
すると、円運動ですから、理想とする社会の姿とは無関係に、自動的に、世の中の空気から生命感が失われていきます。
脳科学、神経科学的なアプローチ(薬物療法)が主流となった現代の精神医学において、フロイトの精神分析学はあまり顧みられなくなったそうですが、この概念が示唆することは、わたしの体感ととても近いです。
(ちなみに、フロイトの精神分析学は、シンクロニシティ―や夢分析を提唱したユングたちに受け継がれ、現代のスピリチュアルに絶大な影響を与えたそうです。)
自殺者の誰もが、生まれた時から死をゴールとしているわけでは、絶対にありません。
しかしエロスとタナトスのバランスは円運動なので、どちらかを弱めることで、無自覚にもう一方に引き寄せられていきます。
逆に言えば、生き生きと躍動して生きるためには、エロス(生への欲動)が不可欠なのではないでしょうか。
ベストセラー「逝きし世の面影」で書かれたように、明治維新以前の社会では、日本人もみな生き生きとしていました。
ところが現代の日本では、性に関する公の場での発言はタブーに近く、教育の場で性を伝えることなどもってのほか、人間とエロスを分離させることが常識とされました。
「禁欲」を最上位の価値に置いたのです。マックス・ウェーバー以前のプロテスタンティズムのようです。
人間を合理的で機械的にとらえる人間観です。
繰り返しますが、カラダの中でエロスが燃えないと、円運動を描くようにタナトスに近づきます。
それが、ネガティブな方向に深く潜り込んだ経験から得た体感です。
その経験がない場合、この円運動をイメージできず、エロスを生命全体でとらえることがでぎず、単なるいかがわしいものとだけ考えて、自らを縛り付ける縄を太くしていきます。
でも、日本を覆う空気は、便利で効率的で合理的なものになる一方で、息苦しく、肩に力が入り、攻撃的なものになっていないでしょうか。
ハグもそうです。
日本では極端にスキンシップを避けます。
ところが、スキンシップはオキシトシンという幸せホルモンを増加させることが科学的に分かってきました。
日本人は生物的な終焉に自らむかっているようにすら思えます。
別に、忍耐や恥が日本人の唯一最良の美徳だとは、わたしには思えません。
わたしは握手に限らず、どんどんハグして、他人と気持ちよく接したらいいと思います。
わたしたち日本人も、エロスの火花を激しく燃やす許可を、自分自身に出してもいいのではないでしょうか。