こんにちは。ケトラーです。
シータヒーリングのTさんに2000年単位で男性性と女性性の時代が移り変わっていて、数年前に女性性の時代に移ったから「2000年以上前の考え方の方が参考になる」とアドバイスをもらいました。
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それで、いままで興味もなかったいまから約2500年前の中国の思想家、孔子の「論語」を読んでみました。
孔子自身は本を残していなくて、孔子や弟子の言葉を、のちの時代にまとめたものが「論語」だそうです。
しかも、「自立とは依存先を増やすこと」の言葉で衝撃を受けた安冨歩さんの翻訳した論語の本がありました。
これは面白そう、と手にとってみました。
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超訳論語。
超訳とは、古典を現代に通じるように翻訳し直したもの、らしいです。
ニーチェの超訳シリーズが知られてますね。
孔子の生きた2500年前って、日本はまだ縄文時代なんです。
読んで、驚きました。
現代に合うように翻訳し直しているという面はあるにしても、あまりにもナチュラルなイキカタとシンクロしている。
これほど昔に源流があったとは・・・。
論語の大事なコンセプトが君子(くんし)です。
現代で君子というとリーダーというイメージですし、論語も戦国時代に権力者のあり方を説いている側面はありますが、もっと広くとらえた方が面白く読めます。
(君子のイメージ)
これからお話しするのは、あくまで安冨歩さんの解釈であり、わたしの解釈ですが、古典に正解はないです。
だから、堂々ときもちよく誤読できる。
そういう、どの時代ともシンクロする寛容さが、古典の魅力だとも言えます。
ともかく、君子とは、単なるリーダーに留まらず、孔子が理想とする、学んだものをしっかりと自分のものにできている状態のことです。
学びがひらかれて、自分の体と響きあう・・・。
そのためには、そもそも自分の感覚を素直にキャッチできる必要がありますよね。
でなければ、他人の言葉や常識、世間体で、自分モドキを自分自身と思い込んで苦しくなるだけです。
このマインドフルネスじゃないですか!?
君子とは、まさにナチュラルなイキカタを実践している人のことみたいです。
「他人が自分をわかってくれない」なんてどうでもいいことだ、
「自分で自分をわかろうとしない」ことが問題なのだ。
さらに孔子は言います。
「知っている」よりは「好む」ほうが上だ。
「好む」よりは「楽しむ」ほうが上だ。
もう一度書きますが、2500年前ですよ!
ホリエモンの言葉じゃないですからね!
原文では、
子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者
君子は、困難を学ぶ機会と受け止めて、学習を通じて変化し、成長します。
「危害を加えず、求めもせねば、よからぬことなどありはせぬ」
孔子の弟子、子路は生涯これをモットーとしていた。
しかし孔子は言った。
「そういう方法では、よいとは言えない。よからぬことがなければ、成長しないではないか」
2500年後のカウンセリングですか!
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こうして学び、変化し、成長していると、他人の過ちに寛容で、そこからの学びを促します。
逆に、知識を得ただけで自分のものとしていないことを、孔子は小人(しょうじん)と呼びます。
世間では、人間を型にはめようと圧力をかけてきます。それに負けて型にはまって止まってしまうと、もはや学ぶことがなくなり、小人となります。
自分自身を見失わず、心のままにあれば、進む道は自然と広がっているので、道を選択することもありません。その道を進めば、為すべきことが見えてきます。
自らの心のありさまと言葉とを一致させ、自らの進むべき道を進んでいる人の言葉は、必ず実現する。
一方で小人は、情報収集に余念がなく、保身を図ります。知識からは道が見えず、数多ある選択肢から選ぼうとするので惑い、最適かどうかおびえ、うまくいかないとひがんだりすねたりします。
君子は自分の考えを上に到達させる。
小人は自分の考えを下に押し付ける。
2500年前にもパワハラがあったのでしょうか・・・。
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ただ、このブログでも何度も書いてきたように、圧倒的な情報のなかで、自分の心に素直であることはとても難しい。
まるでそれを見透かしているように、孔子は言います。
その場の誰からも善人とされるような人こそは、徳を破壊する賊だ。
誰からも善人とされるということは、何かを誤魔化しているからだ。悪いやつからは嫌われなければ、善人とは言えない。
嫌われる勇気ですね。
じゃぁ、君子が善で優れており、小人が悪で劣っている、君子と小人は対立するという単純な話ではありません。
人間ですから、君子的な面もあるし、小人的な面もある。
学びを自分のものにできている(仁)かどうかは答えのない道です。
今日明日とか、一年でなるというものでもありません。
螺旋のように、グラデーションで君子、ナチュラルなイキカタに近づいていく。
いいのかどうか立ち止まってしまう私たちにも、孔子は言います。
仁は遠いものだろうか。いやそうではない。仁は態度のことなのだから、私が仁でありたい、と思ったなら、それはもはや仁がここにある、ということだ。
学びを自分のものにできているか疑問をもったら、立派な仁なのです。
最後に、孔子が示した君子になる四つの方法。
孔子は四つのことを教えられた。
言葉による表現と伝達の技法(文)
実践(行)
言動にあたっては、常に真心に従っていること(忠)
言葉と心が一致していること(信)
どうでしょうか?
わたしは、古臭い古典というイメージが覆り、時を超えて新たな地平が広がった気がします。
論語は、512の言葉からなります。
「超訳論語」に収録されているのは一部だそうです。
あなたの今の気持ちとシンクロする言葉を探してみてはいかがでしょうか。
紀元前の中国の言葉とわたしの心つながっているって、面白い感覚だと思います。