こんにちは!
ketoraaaです。
私の妻は、これまでに書いてきたような工夫を、経験を糧に自ら身に付けてきた、私の身近なモデルです。
理容師をしており、理容室の経営者でもあります。
休職中に妻と犬の散歩をしていました。
その時、犬と一緒に走った私は足を痛めてしまい、「犬の散歩くらいで足を痛めるなんて、すっかり鈍っている」と落ち込みました。
そのすぐ後、偶然に妻も、犬にひっぱられて盛大にずっこけ、コンクリートに足をうちました。
その時妻は「大怪我せずこのくらいで済んでラッキーだった」と言ったので、驚きました。
まさに実際の生活で起こる何気ない小さな出来事をどうとらえたか、という紙一枚分の差の具体例でした。
その時の私は認知療法にピンときていませんでしたが、「これか!」と、理論と生活が結びつき、一本筋が通ったような思いでした。
とても些細な出来事ですが、これが一日一日と積み重なった先には、別の景色がありそうな予感がしました。
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また、私のうつ病について、妻は一度も責めませんでした。本当にありがたかったです。
周りから「大変だね」と言われることもあったようですが、もっと大変な人は沢山いて、自分はなんて平凡なんだろうと思うと言っていました。
妻は、私のうつ病という出来事に対しても「一緒にいられる時間が長くてラッキーだった」と言っていて、認知の力を実感しつつあった私は、素晴らしい相手と出会うことができたと思いました。
一番驚いたのが、沖縄旅行に言った際です。
わたしの病気で行けていなかった新婚旅行と思い、奮発して星のや竹富島という高級ホテルに泊まっていました。
二人とも、星のや竹富島の大変すばらしいホスピタリティに感動しました。
しかし、妻は体験ダイビングで5回吐くし、熱中症になるしで大変でした。
普通だったらせっかく沖縄に来てるのに、せっかく星のやに泊まってるのに、とくやしい思いに囚われそうですが、妻は、星のやでよかった、と言ったのです。
熱中症になったのが、5回吐いたのが、ホスピタリティの高い星のや竹富島でよかったと。
すごいです。
どんなことでも、前向きにとらえられないことはないと教えられました。
また、私は、妻が他人に嫉妬しないところもとても尊敬しています。
私は、他人の些細な一言でもその裏の裏まで想像し、大学の頃には「1を10で受け取る」と先生に言われたほどでした。
他人のうらやむような状況も自分と比較し、「なぜ自分はそうではないのか」と自分を追い込んでいました。
SNSへの執着の背景には、そのような私の性格もあったと思います。
一方妻は、テレビで特集される有名人の贅沢で派手な生活や、SNSにアップされているおしゃれな場面なども、その人の氷山の一角であって、そこに至るまで、またはその裏では、想像を絶する苦労や苦難があることが自然で、それ以上でもそれ以下でもなく、こだわるまでもないと考えています。
実際、有名芸能人が覚せい剤で捕まる、仲の良かった夫婦が離婚する、仕事が順調だった人が大病で仕事ができなくなるなど、人には空間的・時間的に俯瞰してみれば、色々な面、様々な出来事があります。
「人間万事塞翁が馬」です。
自分が見ている場面は、たった一方向からの一瞬であり、その人の全てではないのです。
私もそう考えるようにしてみると、不思議と色々な出来事が大きな流れの一部だと思えてきて、他人に対して、ネガティブな感情を持つことは少なくなってきました。
もう一つ妻の面白い考えが、人生のピークを死ぬ直前に持ってこようとしているということです。
死ぬときは「死にまーーーす」といって死ぬと言っています(この言い方が絶妙なのですが、文章でうまく表現できません)。
私は、スリーグッドシングスに出会うまでは、なんとなく起きてから寝るまでいいことで埋め尽くせないと、ダメな一場面だけクローズアップして、「今日はダメな一日だった」と一日全てを否定的に評価していましたが、死ぬ時をピークに据えて、人生を死ぬまでの全体で捉えると、一瞬、一場面、一言、一つの出来事、一つの失敗といった「いまのダメ」へのこだわりをだいぶ和らげることができることを学びました。
チャップリンの残した言葉にもあります。
人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である。
最後に、もう一つ妻のすばらしいところが、お金への執着がないことです。
これまでに書いてきたように、人間関係とお金は、人の悩みのなかでも大きなウエイトを占めています。
他人と一切関わらない生活を送り、人間関係の悩みを手放すことは現実的には難しいですが、妻を見ていると、お金の悩みに関しては、「ある程度はなくせるのではないか」と思うようになりました。
明日の食費や、治療のための入院費が捻出できないというような深刻な場合は別ですが、買ったものが満足いかなくて損した気分になるとか、せっかく高額の贈り物をしたのに意外と喜んでもらえない、旅行先がいまいちだった、外食したレストランがまずかった、お金を落としてしまった、というような「損した」というような場合は、お金への執着をやめることで、その事実は、それほど悲観的な出来事ではなくなります。
「お金」に関することは、特に「損した」「もったいなかった」と評価の視点でとらえてしまいがちですが、「損した」と思い続けたところでお金が返ってくることはありませんし、金銭的な余裕が生まれるわけでもありません。
別にお金を増やすことを最優先の目標に生きているわけではないのだから、使ったお金にこだわり続けるよりも、前向きにあきらめて、有限な脳のエネルギーの方を別の視点に注いでみることが、自分の望む、自然なあり方だと気づくことができました。
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つづきます。
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