こんにちは!
ketoraaaです。
前回は、思いがけない仕事の担当になって、残業が激増し、ワーカーズハイになったところまでお話ししました。
私の仕事は、財務に関する部署間の調整のような業務でしたので、「自分の仕事はなんの意味があるのだろう」という思いが、常に頭の片隅にありました。
ある部署から出てきた書類を、穴が開くほど私がチェックしたとしても、次の部署の意向で180度変えられることもありました。
それであれば、私を介さずに直接やり取りした方が、意思伝達は迅速で正確です。
大きな組織ですので、その先の部署や、ど偉い人の意向で変わることもありました。
間に他人が入っていると、みなさん結構好き勝手言いますので、この、組織の部署間調整に費やす労力は、すさまじいものがあります。
言いたいことがあるなら相手に直接言えよ!と何度心で叫んだことか。
そのように内容が変わると分かり切っている資料でも、同じ会社内でも別の部署に行く前に完成度の高さや内容の正確さ(無謬性)が最優先にされる傾向にあります。
これは、長時間労働の大きな要因です。
修正を繰り返した挙句、元に戻るということもあります。
縦割りというやつです。
相手の部署も、鬼の首を取ったようにちょっとした誤りを指摘してきます。
大きな視点では結論は同じなのに、そこに至るまでの単なる儀式に、人の生活を犠牲にするほどのエネルギーを費やすことが最も尊いとされているのです。色んな意味でとにかく消耗します。
「その結果何が生まれるか」「全体の配分から考えて、その仕事にどのくらい労力を割くか」「そもそもどこを目指しているか」というような視点が抜け、その分を長時間労働で補うのです。
部署のメンツだったり、個人的な好み、性格的な細かさ、パフォーマンス、表面的な形式に振り回されて、メリハリなく闇雲に時間ばかりかかりました。
本来の意味が忘れ去られて、形式やメンツが優先され、それを個人の努力で補う。。。
どこかで聞いた話です。
「もっとちゃんとやろう」「もっと細かくやろう」という分かり易い正義に対して、「もっと手を抜いてよいのでは」と異議が唱えられることはまずありません。
細かい人のいちゃもんの付け方は、尋常ではありません。
誰かの行動、発言、企画には「違いますーす」といちゃもんを付けますが、全体に自分からは動かず、当事者にはなりません。
「おれに文句言われても、別におれが思ってるわけでもないし」と、伝言ゲームの橋渡しで何度思ったことか。
その程度のことで一つひとつバトルしていたら、私の身体がいくつあっても足りないと思いました。
とりあえずモチベーションを維持するため、「10,000分の1でも自分の爪痕が仕事全体に残ればいいか」と思っていました。
ただ、その10,000分の1の爪痕の割には業務量が膨大でしたので、そのギャップから無力感に悩み、担当者も私一人だけで相談相手であるはずの係長も休職中だったため、そのバランス感覚、力の入れ加減、按配がよく分からず、孤独を感じたこともあります。
それでも、他の部署にそういった私の置かれた状況を理解してくれる方もいて、「あいつのためなら」と一肌脱いでくれる方に助けられつつなんとかこなしていました。
部署内の若手同士の仲も良かったので、仕事終わりに朝までカラオケにいったり、同僚の誕生日会をやったり、楽しかったのが救いでした。
つづきます。
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