ぼくの生涯のテーマになりそうなものに「セクシュアリティ(性愛)」「エロス」があります。
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ぼくのヒーリングゲストハウス構想にも、セクシュアリティを入れています。
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どういう形で表現、実現できるかはわかりませんが、これは一生かけてテーマにする価値のあるものだ、と直感的に感じていることは確かです。
このセクシュアリティへの関心は、多分子供の頃に抑圧されてきた反動もあるでしょうが、新しい命を生み出すという原始宇宙的営みであるにも関わらず、表向きは抹殺すべき欲望として取り扱われている二重性が、ぼくにはどうしてもひっかかります。
セクシュアリティというと、どうしてもダークでいかがわしく、よくない空気を纏います。
ぼくは、そうやってセクシュアリティを抹殺するべき欲望として扱うことに、不自然さを感じていきたのです。
もちろん、生理的な拒絶感を持つ人を否定するものではありません。
性の扱いの代表は日本の性教育ですね。
性は、もはや物理現象の一つとして扱われてます。
ところが、社会に出てみて、性が活動的に生きる上で欠かせないことだと知ると、それまでに作られた既成概念とのギャップに戸惑うことになります。
いちいちこのギャップを作り出すことの意味って!
そういうことをシータヒーリングのTさんに話していたら、一冊の本を紹介されました。
千賀一生さん著「タオ・コード―老子の暗号が語り出す 性の五次元領域から迸る秘密の力」です。
Tさんの引き出しの多さに驚きつつ、ここでもぼくの直感と2千年以上前の知恵がつながったのです。
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この本は、約30年前、中国雲南省奥地の村で、著者が「老子」の本当の意味を伝えられたレポートという体裁をとっています。
↑映画「アバター」に似ている設定。
真実かどうかは別として、この本のイマジネーションは突き抜けています。
老子は、孔子と同時代の人物というのが通説ですが、実は実在すら疑われている伝説の人物です。
道教の始祖とされ、その中心的思想は「道(TAO)」。
日本でも、「柔道」「剣道」「武士道」「合気道」「茶道」「書道」「華道」、ある分野の真理を探究することを「道」と呼びますね。
孔子の教えに基づくのが儒教。老子の教えに基づくのが道教です(道教は老子の思想とは一貫性がないという主張もあるようです)。
「道(TAO)」を説明するのは非常に難しいのですが、
人間が従うべき宇宙の根本原理
というイメージかと。
老子書にはこう書かれています。
「道可道、非常道。名可名、非常名」
(道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。)
これが「道」だと説明できるようなものがあれば、
それは「道」ではない。
そして、これが「名」だと呼べるようなものは、
それは本当の「名」ではない。
なんともナゾナゾのような文章。笑
実は、このような老子書の抽象的でナゾナゾのような文章は、研究者の間でも長く謎だったそうです。
老子には文脈の飛躍も多いと言います。
そのために多くの解釈の余地を残したとも言えます。
現代的な解釈では、
名前や形といった理解の及ぶものに左右されず、根源的なもの(そこが分からないほど深いもの)によって生きべきだ
となるでしょうか。
般若心経に似ていますね。
般若心経が大好きな武田双雲さんの好きな「上善如水」も老子の言葉です。
最高の善は水のようなものである。万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善のたとえとしたことば。
だそうです。
記事:上善水の如し。とは。 | 書道家・武田双雲 公式ブログ『書の力』Powered by Ameba
しかし、仮に現代に残っている老子書が、後の権力者によって都合よく改ざんされた文章だったとしたら・・・。
これがこの本の着想です。
著者が訪ねた村で、M老人という本当の老子書を知る人物から語られたのは、驚愕の事実でした。
老子が生きた当時から、時の権威的思想によって、セクシュアリティについては慎むべき欲望とされていたそうです。
仮に、時の権威的思想を表立って否定するようなものを残してしまったら、その思想は抹殺されてしまうだろう。
実際にそうやって葬り去られた思想は数限りなくあります。
死海文書が偶然発見されなければ、聖書はいまの形ではありませんでした。
そう考えた老子が取った方法は、「道(TAO)」に暗号的意味を込めること。
実は、TAOという同じ読みで、全く異なる意味を持った言葉があるのです。
それが、「性」
↑実際はもっと難しい漢字。
老子書は、東洋版ダヴィンチ・コードだったのです!
老子書で語られるのは、「性」こそがグレート・タオ=宇宙の根本原理、愛というものの究極、全存在的エクスタシー。
それが、老子書で語られている本当の意味だというのです。
単なるセックスは、宇宙的な意味での性の一時的な疑似体験に過ぎないと言います。
グレート・タオとは、
誰もが希求する愛というものの究極、それは大道、すなわち万物を生み出す至福の波動領域だ。
通常は意識とその領域とが合一しない限り実現できないこの究極の至福を、ほんのわずか垣間見せてくれるもの、それが人間にとっての性体験でもある。
老子は、それを人間の目指すべき世界への導き手として「道」と名付けた。
彼は、性のエクスタシーとは、宇宙そのものの脈動(宇宙本源の性)が生命に表れる疑似体験であり、人類が一時的に宇宙そのものの営みと化す瞬間であると悟っていた。
性のエクスタシーは、一瞬の興奮だが、自ら宇宙の営みそのものへと帰一した万物一体感は、体の全細胞が恍惚とした悦びに震え続ける全存在的エクスタシーだ。
老子は、それを老子書に暗号として封印することによって、世の権威者たちからの抹殺に逃れることに成功したのです。
人間とは、宇宙とは性である。
二対の陰陽から一を生み出す宇宙の脈動。それが性。
この究極の真理を語った老子書。
この宇宙的エネルギーというあまりにも深遠で壮大な宇宙観。
宇宙の真理が悟れたらと、全ての哲学者・宗教家・クリエーターが思い描くイマジネーション。
老子は、私たちが最も強く求めていながらも、あまりなも深く巨大であるがために理解できないでいる最大の対象を見すえている。
あまりにも巨大であるがためにその構造をとらえることができない心の宇宙を、彼は性という最も適切なレンズでとらえさせようとしているのだ。
気になるのは、なぜ老子は宇宙の根本として性に着目したのか?
これに及ばずして、人間の変化も、社会の変化もないからだ。
性は人間の本質であるだけではない。それは社会の本質であり、宇宙の本質だ。
ユダヤ教の聖典「タルムード」には「性行為のあり方で、その人がどういう人かがすべてわかる」と書かれている。
(中略)
あなた方は忘れているが、性とは本来、卑猥どころか、その対極にあるものだ。
それを卑猥なるものにしてしまったもの、それはあなた方の社会に現れた支配者であり、その権威だ。
そしてそうした権威者が作った善悪の観念だ。(ぐっち注:二元論は権威者に都合が良い)
ありのままの目でそれを見れば、そこには、あなた方が必要としている全てがある。
それは命の元であり、自然の恩恵の中心であるのだから当然のことだ。
人間が必要としているすべてへと至らせる働きがそこにはある。
人間という枠を通り越し、さらには生命という枠をも通り越した、宇宙の究極がある。
はたして、宇宙の究極は、本当に性にあるのかどうか。
老子の語る性とは、宇宙との一体感。
人の交合だけではなく、宇宙との交合。
明確なのは、ただそこにあるだけで、自分が幸せに感じられるその感覚だ。
幸福とは、何かを手に入れなければ得られないものではなく、むしろ、何かを手に入れようと思うことそれ自体が幸福から外れた生き方である証拠なのだ。
(中略)
彼の主張の中心は、性から目をそらすのではなく性を深くみつめ、さらにその何たるかを極めることによって人間性の回復をはかることだった。
悲しくも文明宗教においては、生命にとって最も尊いはずのこの性というものが、最も蔑まされる対象と化してしまった。
それを語ることはえげつないことだと見なされるほどに、性は蔑まされる存在と成り果てた。
(中略)
自然と調和し、社会の全ての人が人間本来の幸せを享受できるかどうかの決定権を握る「性」、明治政府が性信仰を徹底的に破壊しつくしたのは、彼ら支配者側からすれば、賢い策略であったかもしれない。
なぜ現代社会は性を認めようとしないのか。
現代の商業社会においても性が果たす役割は甚大極まりない。
書店に並ぶごく一般的な雑誌類もその大半は、直接、間接を含め、性的意識を引き金にしている。
性の意識が歪めば歪むほど、抑圧されればされるほど、その求引力は強くなる。
性におおらかな社会では、人はそれを無闇に求めなくなる。
そうなったら、産業という産業が停滞してしまうだろう。
そうやって、人間の欲望は結果として増大していく。
欲望をふくらませた人々は、様々な金品を追い求め、幸福を追求する。
神から与えられたありのままの幸福は見えなくなり、歪んだ代替としての金品を、欲望のままに求め続ける。
その活動こそが経済を活性化させる。欲こそが社会の中心原理となる。
突飛なイマジネーションではありますが、現代社会の本質を突き、さらに人間の全感覚を解放し自然と調和して、人間性の回復を図るという思想は、自分を大切にする生き方ともつながります。
ただそこにあるだけで自分が幸せ、これこそ、
まさに無条件の愛!!
物や情報に振り回されている心の宇宙を、「性(TAO)」というレンズによってとらえなおそうとする老子の新しい解釈。
欲望としてセクシュアリティではない、しあわせな生き方への「道」としてのセクシュアリティのヒントをもらえた気がします。
ぐっち