ナチュラルなイキカタ

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【認知療法】追悼高畑勲先生。マインドフルネスと認知療法に溢れる高畑勲版「赤毛のアン」

こんにちは!

ketoraaaです。

以前の記事で、テレビアニメ「赤毛のアン」に感動して、監督の高畑勲さんが講師をされていた日本大学芸術学部映画学科に進学したことを書きました。

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有志を募り、一度、高畑勲先生と飲みに行くこともできました。

夢のような時間でした。

すでに70歳近かったのですが、見た目とは裏腹な静かで激しい情熱に驚いたことを覚えています。

学生がたまたま言った「CGはツルツルしている」という表現を、我が意を得たりと喜んでいたのを思い出します。

先生は、いつも何かにわくわくしていました。

その高畑勲さんが、4月5日に亡くなりました。

82歳でした。

 

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私の最も尊敬する方ですので、言葉がありません。

今朝そのニュースを知り、私は泣きました。

少し長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。

改めてその足跡を振り返ると、本当にとてつもない方でした。

高畑勲さんがはじめてアニメーション映画を監督したのは、いまから約50年前の「太陽の王子ホルスの大冒険」です。

アニメーションはとてつもないパワーを必要とする表現ですので、それを50年も続けられたことに、本当に驚きます。

日本でこれだけのキャリアを積んだのは、高畑勲さんと宮崎駿さんのお二人だけかもしれません。

「太陽の王子ホルスの大冒険」には、高畑勲という旗のもと、宮崎駿さんを始め、後の日本のアニメーションをけん引していくキラ星のような才能が集結しています。

その後、「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」と、いまなお愛されるテレビシリーズの監督を務めます。

70年代に制作された「パンダコパンダ」という短編が、「となりのトトロ」の原型と言われているように、多くの作品を宮崎駿さんとともに制作し、宮崎駿さんに絶大な影響を与えたと言われています。

アニメ作品ではじめてロケハンという取材を敢行したのも高畑勲さんだったとのことです。

日常をつぶさに観察し、それをアニメーションという感覚的な表現で再構成することで、アニメーション化する意味はないと言われた日常の描写こそ、私たちの眠っている五感を呼び起こし、現実に新たな意味を発見することができると信じていらっしゃいました。

宮崎駿さんや高畑勲さんの作品に食事のシーンが多いのはこのためです。

この頃の高畑勲さんはデジタル以前のアニメーションの様々な技法に挑戦し、セルアニメの技法の8割を発明したという伝説もあるくらいです。

その後は「火垂るの墓」で原作の野坂昭如さんに「アニメ恐るべし」と評され、「平成狸合戦ぽんぽこ」で世界三大アニメーション映画祭であるアヌシー国際アニメーション映画祭でグランプリを受賞しました。

「平成狸合戦ぽんぽこ」以降に日本の作品がグランプリを受賞するのは、22年もたった昨年のことです。

近年は商業的な支持を集めることはありませんでしたが、「ホーホケキョとなりの山田くん」はニューヨーク近代美術館の永久保存作品に選ばれるなど、美術的に愛される作品を生み出していました。

アニメーション演出家としてだけでなく、日本でまだ無名だった世界的なアニメーション作家のユーリ・ノルシュテインさん(「話の話」「外套」)や、フレデリック・バックさん(「木を植えた男」「クラック」)を紹介し、セルアニメーション一辺倒だった日本でアニメーションの多様性を広めました。

また、長寿アニメの代表である「ドラえもん」のアニメ化に当たって、再アニメ化に難色を示す藤子・F・不二雄さんを説得したのも高畑勲さんだと言われています。

「サマーウォーズ」の細田守監督やこの「世界の片隅で」の片渕須直監督も、高畑作品から影響を受けたとおっしゃっています。

さらに、宮崎駿さんとのライバルであり盟友であり、同志である関係は有名で、初期の宮崎映画ではプロデューサーとしてサポートするだけでなく、「魔女の宅急便」の主題歌に荒井由実の起用を決めたのも音楽に造詣の深い高畑勲さんだとのことです。

宮崎駿さんは高畑勲さんを「オオナマケモノの子孫」と評し、高畑勲さんは宮崎駿さんを「エロスの火花」と評しています。

いま、宮崎駿さんの映画の設計図である絵コンテが書籍として販売されていますが、「宮さんの絵コンテは作品だから」と書籍化を後押ししたのも高畑勲さんだったそうです。

美術に対する造詣も深く、日本でアニメーションが愛される理由を絵巻物に見出すなど、アニメーション研究においても日本の先駆者でした。

外国文学に関しても深い教養をもっており、「おもひでぽろぽろ」で「ザ・ローズ」という曲を翻訳して主題歌、「愛は花、君はその種子」を作詞しています。

私はこの歌詞がとても好きです。

死ぬのを恐れて

生きることができない

死ぬことを恐れることにエネルギーを費やしていたら、肝心の生きることに向けるエネルギーは無くなってしまいますよね。そういう歌詞だと受け止めています。

それだけではありません。宮沢賢治への造詣も深く、「セロ弾きのゴーシュ」をアニメ映画化しています。

社会運動にも自ら矢面に立って参加し、紙一枚分でも戦争に近づきそうなことには徹底的に反対されました。

「柳川掘割物語」という実写映画も監督されています。

こうして少し振り返るだけで、生命力の塊のような方だったことがうかがえます。

ジブリの語源となったサハラ砂漠の熱風のように、同じ表現にとどまらず、周囲を熱して感化していきました。

さて、その高畑勲さんの作品の中で、「赤毛のアン」は、1979年に放送された全50話のテレビアニメです。

作品の前半では、宮崎駿さんもスタッフでした。

1979年は私が生まれる前ですので、リアルタイムで見たわけではなく、高校3年生の時にたまたま地元の図書館に置いてあったビデオで見ました。

「赤毛のアン」では、受験が丁寧に描かれており、受験生だった当時の私にとってタイムリーに感動したことを覚えています。

何度も再放送していますので、その後も2度通してみる機会があったのですが、その度に、その時その時の私の琴線に触れる発見があり、心動かされています。

テレビシリーズを3度も通してみたことは、「赤毛のアン」以外にありません。

映画学科だったこともあって、数多くの映像作品に触れてきましたが、10年後に同じ作品を見てみると、記憶の中の印象とは違い「あれ、おもしろくない・・・」と感じることがほとんどです。

いつまでも語り継がれる名作は、人間の普遍的な感覚・感情・価値について語られているので、いつどのタイミングであっても、古臭くならず、新しい読み方を発見することができます。

そういった意味で、「赤毛のアン」は私にとっての唯一無二の名作です。

そういった作品を、高畑勲さんや宮崎駿さんが生み出せた理由が、「映画を作りながら考えたこと」や「出発点」といった本を読むと垣間見えます。

例えば、映画にはモブ(群衆)シーンという大人数が登場するシーンがあります。

大人数を描くことに恐ろしく手間がかかるため、アニメーションでは敬遠されるシーンですが、特に宮崎駿さんの作品には必ず登場します。

「天空の城のラピュタ」でムスカが兵士を落とすシーン、「魔女の宅急便」のデッキブラシで飛ぶシーン、「風立ちぬ」の地震のシーンなどです。

一般的なモブシーンは、主要な人物以外の人物は、数合わせで適当に描かれています。

しかし、彼らの作品では、その一人一人に対して、どのような人物で、何を考えているからどう動くのかという人間味が与えられて描かれています。

悪人であっても、善人であっても、どのような背景があってそのような言葉・行動に至っているかということについて、造形がされているのです。

そのため、

○主人公を際立たせるためだけの悪人

○恋愛だけで全てが片付く世界

というようなものは登場しません。

それが、作品世界に奥行きを与えています。

例えば、宮崎駿さんの下で「風の谷のナウシカ」の制作に加わり、後に「エヴァンゲリオン」を生み出した庵野秀明さんは、「ふしぎの海のナディア」という作品で世界征服を企む組織が登場する際に、世界征服とは何を達成することで「世界征服」と言えるのか、それをすることで組織にどのようなメリットがあるから実行するのか、という点について、徹底的に議論して悪の組織を描いたそうです。

それは直接的には描かれなくても、作品からにじみ出る深みとなります。

迫力、切迫感が違います。

アニメーションにそのような深みを与えた先駆者が宮崎駿さんや高畑勲さんです。

そうしてもう一つの大事な点が、作品に複雑高尚なテーマを与えるのではなく、「間口が広いが、入ってくうちにいつの間にか階段を昇っている」映画を目指している点です。

複雑高尚なテーマが与えられた作品は、私たちの現実とは隔絶された作品です。

それはそれで芸術上の価値はあると思いますが、そもそも見に行くためにかなりのエネルギーを要求され、それを見て、「明日も仕事に行くか」というようなエネルギーが注がれることはあまりありません。

「平成狸合戦ぽんぽこ」では、現実の環境問題を扱っているにも関わらず、主人公は滑稽なたぬきたちです。

実はこれは、観客に主人公に没入して同化してほしくない、客観性を保ってほしいという高畑勲さんの強い信念の反映した形でもあります。

彼らの作品は、現実と地続きです。現実にどこかが必ず接しています。声高にテーマを訴えるわけでなく、「あ、自分もこういう気持ちになったことがある」と言うくらい軽やかに作品の人物に共感します。

「赤毛のアン」では、まさにそのように主人公のアン・シャーリーへの共感が作品の大きな柱になっています。

アンは孤児であり、痩せていて、そばかすだらけで、赤毛で、恵まれた条件とは言い難い生い立ちをしています。

農作業の手伝いに男の子を欲しがっていたマシューとマリラという老兄妹のもとに、手違いで女の子であるアンがきてしまい、共に暮らすようになるところから物語が始まります。

はじめの10話くらいは、過剰なまでに口の達者なアンになかなか共感できません。多分、少し引きます。「こんな人いないよ」と。

しかし、多少の過剰さもアニメーションを通じて五感を呼び起こす表現に挑戦する「赤毛のアン」ではミソです。

次第にアンが成長し、寡黙で人見知りなマシューと頑固なマリラと心を通わせてくると、がぜん物語に引き込まれていきます。

なぜ男の子を欲しがっていたマシューとマリラが、女の子を引き取ることにしたのか。なぜ寡黙で人見知りなマシューと頑固なマリラが、孤児の少女と心を通わせていくのか。

それは、アン・シャーリーがマインドフルネスと認知療法に溢れる発想を身に付けていたからだと私は思います。

アニメが作られた1979年当時、ましてが原作が書かれた1908年当時に、マインドフルネスも認知療法も知られていたわけではありません。

しかし、マインドフルネス的、認知療法的な思考が、困難な状況でも自然な生き方をしていくための工夫であることを、長い経験から人間は身に付けていたのでしょう。

アンは孤児であり、痩せていて、そばかすだらけで、赤毛ですが、そのような環境に引きずられて、「自分はなんて不幸なんだろう」「自分は今後どうなってしまうのだろうか」と、思考・感情が未来や過去に迷走することがありません。

それは、いつも目の前の自然を最大限に五感で感じて、「想像」を働かせて今感じていることを楽しむことに全てのエネルギーを使い切っているからです。

想像力を過去や未来に飛ばすのではなく、目の前の世界を詩的に捉えることに使っているのです。

「夏の森もいいけど、冬の森も、すてきだわ。真っ白で、静かで、まるで、美しい夢を見ながら眠っているようだわ」

その様子が、グリーンゲイブルズの美しい自然と共に、何度も描かれます。

これこそマインドフルネス!

いま目の前の世界を、私たちはすぐに俳句にできるでしょうか?

この心の回路は、機械化デジタル化によってとても弱っています。

マインドフルネスという言葉を知らなかった高校3年生当時の私は、このアンの様子に新鮮に驚きました。

「不幸なのに、楽しんでいるなんて・・・」と。

なぜなら、自分自身は、計画通り勉強できなかったことや、友人の些細な一言に縛られて悶々とし続けていたからです。

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また、少女のアンは様々な失敗をしでかします。ケーキに間違って薬をいれてしまったり、男の子を黒板でたたいてしまったり。

当時の私は、失敗という事実に囚われて、「また失敗したらどうしよう」「周りがどう思うだろうか」と思考と感情が迷走を始めるところですが、アンは失敗にこだわりません。

それは、一度失敗すると、同じように失敗しないように気を付けて同じ失敗を二度しないことができると考えているためです。

アンにとって、失敗は素材にすぎないのです。

また失敗があるからこそ、「明日は、まだ何も失敗していない新しい日」と、アンは一日の始まりを素敵な気持ちで迎えるのです。

これぞ認知療法です。

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同じ事実であっても、その捉え方は一つではありません。

私は、「赤毛のアン」を通じて、「失敗」にこういう見方ができることを知って目からうろこが落ちました。

「自分もこういう発想がしたい!」と思いました。

しかし、どうやったらその発想を鍛えられるのかが分からず、その後も長く悩み続け、「赤毛のアン」との出会いから十数年経って、マインドフルネスと認知行動療法に出会うことができました。

そして、マインドフルネスと認知行動療法を知って「赤毛のアン」という作品を思い返し、改めてこの作品の素晴らしさを噛みしめているのです。

高畑先生、本当にありがとうございました。

お疲れさまでした。

我々は後ずさりしつつ、未来に入っていくのだ