ナチュラルなイキカタ

うつ病生活6年目の36歳サラリーマン。多くの人にナチュラルな生き方の心地よさを知ってほしい。精神科の薬の断薬・減薬、小さな行動の積み重ねをトライ中。つらい思いで苦しむ人の心が少しでも軽くなるように体験をシェア。ゆるりと更新中。

八方美人が悩みの皆さん!安冨歩さんの「生きる技法」おススメです

こんにちは!

ketoraaaです。

先日、「自立とは依存先を増やすこと」という言葉が心に響いたと書きました。

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それで、その言葉を使われた東京大学教授の安冨歩さんに興味を持ち、著作「生きる技法」を読みました。

とても共感し、感銘を受けました。こういった本が世に出ていることに本当に勇気づけられます。多くの方に、特に人からの評判が気になって仕方ないという方に読んでいただきたいと思い、紹介します。

ちょっと長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。

このブログの最初の書いたように、「一人ひとりで悩み苦しんだ結果として、とても似た工夫にたどり着いている」ことが、自然な生き方に近づく紙一枚分の工夫が、人間の生き方にとって本質的な部分を持っているかもしれないと思ったきっかけでした。

「生きる技法」は、そういった予感を確信に近づけてくれる本でした。

「生きる技法」では、私が心に響いたことばである

自立とは、多くの人に依存すること

という命題を生きるための根本原理として、それを証明していきます。

これ、私たちの常識からすれば、「自立とは、依存しないこと」ですよね。

自立しよう、自立しようと、せっせと勉強し、お金を稼ぎ、家事・育児・仕事もひとりで抱え込んでいます。

それが立派な自立だと信じているからです。

「一人でなんでもできてすごいね」と評価されることは、私たちの世界では尊敬を集めます。

ですが、安冨さんはそう考えません。

「助けてくださいと言えたら自立している」とすら考えます。

面白い発想です。

なぜそう思ったのか、気になります。

なぜ、多くの人に依存すると自立できるという逆説的なことが起こるのでしょうか。

それは、人間が何にも依存しないことは、不可能だからです。

そのため、依存しないように依存しないようにと自立していくと、依存先が少なくはなりますが、なくなりはしません。

依存先が少なくなると、その残り少ない依存先に、自立とは反対に強烈に依存してしまうことになります。

洗脳、ストーカー、DV、あらゆる依存症、権威への従属などがその状態だと言えます。

では、依存先を増やそうと、やみくもに友達を増やせばいいのでしょうか?

どうやらそうでもないようです。

その関係が、外部の基準(友達という形、仕事の上下関係、お金、ステータス、共通の敵など)によるものであれば、増えれば増えるほど苦しくなるだけです。

お互いが自然な状態で繋がり合う関係が、友達だと安冨さんは考えるのです。

これは、私が以前書いた「悪口を言えば言うほど人間関係が苦しくなる」という記事ととても似ています。

関連記事:【人間関係】人間関係が息苦しい皆さん!悪口・陰口を言わないことで、心地よい人間関係に変わります - ナチュラルなイキカタ

このように、このブログを始める前に「生きる技法」読んでいたわけではないにも関わらず、まるで、自分が書いたのかしらと思うくらい「生きる技法」とこのブログが一致する部分が多かったのです。

まず、まえがきで安冨さんはこう書いています。

私が受けた教育や学んだ学問の大半は、この簡単なこと(生きる技法)を隠蔽するように構成されていました。ですから、この簡単なことを見出すのが、とても大変だったのです。私を縛り付けるしがらみから抜け出さなければ、それを見ることができなかったのです。(中略)ここに書かれていることは、みなさんの人生のお役に立つものと信じます。特に、若い方のご参考になるものと思います。若ければ若いほど、呪縛から抜け出すのは容易であり、生きる技法が活用される場面も多いからです。

このように、安冨さんが「生きる技法」を書くきっかけと、私がこのブログを書こうと思ったきっかけが大変似ていることに、まず驚きました。

私はこの「私を縛り付けるしがらみ」のことを、「固定観念」や「強迫観念」と表現して、そこから私の自然な生き方に近づくための工夫として、認知療法やマインドフルネスについて書いてきました。

安冨さんの場合は、この「私を縛り付けるしがらみ」を「自己嫌悪」と表現しています。

そして「自己嫌悪」という態度によって、いかにして友達や愛や貨幣や夢に執着し、等身大の自分をないがしろにしているか。いかにしてそこから離脱するかについて書かれています。

安冨さんの見い出した大事な確信に、次のようなものがあります。

愛は自愛から生じ、執着は自己愛から生じる

ちょっと難しいですね。

自愛と自己愛は似た言葉なのでわかりにくいですが、自愛とは、自らその身を大切にすることであって、自己愛とはナルシシズム、自己陶酔、うぬぼれのことだそうで、まったく違います。

自らその身を大切にする自愛は、私の書く「自然な生き方」に大変近い言葉です。

「自愛」と「自己嫌悪」を対比する「生きる技法」と、「自然な生き方」と「固定観念」を対比するこのブログ。

おこがましいですが、きっととても近い視点を共有していると思います。

「生きる技法」によると、自然な生き方である自愛を身につけることで、評判、利害、打算、保身などとは関係ない互いに人間として尊重し合う愛が生まれます。

それが、愛は自愛から生じる、です。

逆に、執着によって、私達はますます自分の自然な生き方から離れていきます。

執着の対象は、地位、お金、名誉、プライドなど、私達がもともともっていたものではない、自分の外側のものだからです。

地位、お金、名誉、プライドなど、自分がもともともっていない価値と自分が一致しないからこそ、そのズレに嫌悪感、罪悪感を抱き、自分を外的なアイテムで装うことで、なんとかズレを埋め合わせようとします。

お金を持っている自分が好き、会社役員の自分が好き、学年トップの自分が好き、ブランド品をまとった自分が好きという状態ですね。

それが、執着は自己愛から生じる、です。

自分はお金を持ってない、自分はただの平社員、自分は偏差値50、自分はしまむら、という自分への嫌悪感、罪悪感。

これこそ、自己嫌悪です。

つまり、自己嫌悪が、自然な生き方、自愛の障害となっていると安冨さんは考えました。

ちょっと難しい、愛は自愛から生じ、執着は自己愛から生じる、を分かりやすく言い換えると、

自らその身を大切にすることで互いに人間として尊重し合う愛に近づき、外部の価値観を基準に自己嫌悪をしていると、自然な生き方から離れていく

という感じでしょうか。

それって具体的にどういう状態のこと?と思われると思いますので、日常の出来事に置き換えてみます。

休日を昼寝で過ごしたとします。

多くの人が、「せっかくの休日を昼寝で使ってしまった」と自己嫌悪に陥ります。

私にも本当によくあったシチュエーションです。

でも、自分の身体、感覚は眠りを欲しているわけです。

それを否定しているのは、休日はアクティブに動いて充実しなければならないという外側の基準にすぎません。

自然な生き方は、こうした自己嫌悪を離脱することで実現されます。

しかし、多くの場合、自己嫌悪に基づく価値観、理想像こそが成功であり、幸福であるという観念によって、社会は構成されています。

いい大学にはいって、いい会社に入って、というアレです。

私達がこの自己嫌悪という態度を、信念として身につけるのはなぜでしょうか?

安冨さんはこう考えます。

人間は成長し、他人との関係を取り結ぶために、多くの物事を身に着けねばなりません。この身に付けるべきものは、自分の中にはなく、外にあります。自分の外にあるものを身につけるときに、自己嫌悪の種が生じるのです。自分の内にないものを「すばらしいもの」「正しいもの」と思い込み、それを帯びていない自分を「つまらないもの」「間違ったもの」と思ってしまうからです。

このように、自己嫌悪は「自分自身の悪さ」に起因していないのです。

これは、とても大事な発見だと私は思います。

生まれたての赤ちゃんが自己嫌悪に陥る様子を見た人はいません。

だから、「自分のダメな所を直す」という私達が訓練している最も基本的な態度では、自己嫌悪から離脱できません。

自分自身の悪さがあるわけではないので、ありもしない「正しさ」という幻を追い求めて迷宮をさまようだけです。

私自身、そのような内省心理学的態度で、自分を好きになるどころかだめダメ所が直らない自分をますます嫌いになっていった経験があります。

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安冨さんもそのような経験をお持ちなのだと思います。

では、自己嫌悪から離脱し、自愛を身につけるための方法とは?

自分が帯びているものをひとつひとつ確認し、その中で本当に必要なものは何か、必要でないものは何かを、日々の生活の中で見極めること。必要でないものは、勇気を持って捨てねばなりません。そうして自分を身軽にすることが、自己嫌悪からの離脱につながります。

そう。安冨さんも、自然な生き方に近づくためには、自分自身の声を聞く感覚、心の回路を鍛えることだと言っているのです。

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自己嫌悪から離脱して自分の声を聞くための感覚を再生しようと願うと、そのアンテナが立ちます。

そのアンテナがたった状態は、もう自己嫌悪という態度とは違います。

自己嫌悪という態度から離脱すると、離脱していない人から攻撃されるでしょう。

でも大丈夫です。その点については、「生きる技法」の「友だち」の章をぜひお読みください。