私の自然な生き方に近づく紙一枚の工夫

大企業で働くことに翻弄されて消耗し、うつ病で2回の休職と復職を経験したketoraaaです。私がうつ病の治療で出会って感動した、肩の力が抜け、足りているものに満足し、小さなことを楽しむ、しなやかで強い心を持った自分に近づくための小さな工夫をご紹介します!【毎週末更新】

仕事で思いがけない担当になり、上司も休職して追い込まれる

こんにちは!

ketoraaaです。

前回までは、紙一枚分の暮らしの工夫が、なぜ大事なのかをお話ししました。

それでは、実際に私がどのような環境でどのようにうつ病を発症し、うつ病という、人間の脳の特徴に関係する病気がどういうもので、どう向き合い、どのような工夫で復職したのか、具体的にお話ししていきます。

話は平成23年に遡ります。東日本大震災の年です。

29歳の私は、東京の会社で、毎日がむしゃらに働いていました。

もともと私は、「仕事はお金をもらうのだから、学生とは違う。辛くて当たり前だ」という仕事観に馴染めず、「なぜ仕事が楽しくてはいけないのだろうか。人生の大半を占める仕事を、わざわざつらいものと決めつけないで、楽しくやりたいし、楽しくする工夫はしたい。そのためには余裕を失わないために仕事をほどほどにしておくことが大事だ」と考えていました。

ですが、平成21年から在籍していた当時の部署の同僚はみな優秀で、置いていかれないようにするだけで限界ギリギリ、がむしゃらにならざるを得ませんでした。楽しくありません。セリエAに一人だけ高校生が紛れ込んだような場違いな毎日でした。

ところが、その部署で3年目をむかえた平成23年4月のこと、部署内でも特に業務量の多い主要な担当になりました。

これまでは、私より年齢が上の、昇進直前というような優秀な人がやる仕事でしたので、想像もしていない分担でした。

会社の期待の表れということだったと思いますが、周回遅れと思っていただけに、「まさか私が!?」と驚きました。

仕事の分担が変わるとほぼ同時に、突然、私の上司であったS係長が、「もう限界」と言い残して休職しました。

平成23年4月2日、会社の喫煙所に、S係長が私に限界を伝えに来た場面は、いまも鮮明に覚えています。

「ketoraaaさんがいるから何とかやってきたけど、もう限界なんです」とS係長から告白されて、私は新しい業務で不安だらけでしたが、「体調優先ですから、休んでください」というのが精一杯でした。

S係長は、その係で2年目に入ったところで、1年目の業務が相当堪えたのだと思います。

既に定期的な異動も終わっていたため、すぐに別の係長が来ることありませんでした。係長不在という異常事態のなかで特に業務量の多い担当をこなすことになり、とにかく今まで以上に必死にやるしかありませんでした。

「周回遅れの自分に何ができるだろうか」と根本では思っていましたが、次から次に息つく間なく仕事があるので、自分の資質について立ち止まって悶々とする暇はありません。

元々は謙虚で控えめでしたが、「謙虚にやっていてはとても追いつかない。頭のネジを2・3本外してやるしかない」と、謙虚さを端に押しやって仕事をしていました。

相談できる係長がいないので、ある部署から自分の部署に戻る100メートルの廊下で、頭を高速回転させてどう自部署内で話を回すかを算段しました。脳は常にアクセル全開でした。

深夜0時になっても目途の立たない書類の山を前にして、現実とは思えず笑いが込み上げてきたのを覚えています。

それまでの残業時間は多い月でも70時間くらいでしたが、多いと150時間くらいになり、この担当になった1年間で有休をとったのは、風邪を引いた2日だけでした。

なんとか謙虚な自分を変えられないかと、とにかく思いつくことを片っ端からやりました。スーツを買い直し、メガネをコンタクトにし、髪形も変えました。

私のことを40歳だと思っていた同僚が「20代だったのか!?」と驚くほどの変わりようでした。

「自分にもこの状況を耐える力があったのか!」と自分でも驚きました。

次から次に仕事があると、いつまでも同じ案件にこだわっていられず、強制的に次の案件に取り組まねばならないため、意外に悩んだり落ち込んだりすることを防げました。

ワーカーズハイでした。

最初からお読みいただける場合は、こちら↓

関連記事:紙一枚分の厚さの工夫を積み重ねることで、生きる力になる - 私の自然な生き方に近づく紙一枚の工夫